ろくろく人生レポート

東京おとこひとり 改め:66才からの人生探求レポート

説明する必要の無い相手には説明しなくていい。自分が価値のあると思うものは何も言わなくても自分をわかっている。

f:id:bearpond:20160712212230j:plain 40年以上まえの高校のとき。
自分で言うのも何だけど、「その件」があるまでは天真爛漫で笑顔の無邪気な子共であった?!と自分では記憶しています。女の子とばっかり遊んでいたので男からはいじめられていたと思います。が、自分はそんな男達をまったく相手にしない強さがありました。しかし多少悩んでいたという記憶はあるものの、その事実を真に受け止める様な「後ろめたさ」が無かったのが幸いしてか、親にも相談せず、自殺もせず、病気にもならず、で過ごしました。しかし、そういった同じ学生同士ではないところに落とし穴があったのです。
成績が学年で後ろから2番目(バカな子後ろから2番目)になったときのこと。
いい成績とろう、なんてまったく考えたこと無かったので遊んでばかりいました。そうしたら両親共にすごい剣幕で担任にあって相談する!と電車に乗って学校まで3人で向かったのです。
いつも独りで乗る、いつもの電車に親が二人も一緒に居るという異様な状況にまず違和感がありました。そして学校のソファのある様な個室に通されたときのことです。
そこで、ソファに座った自分はいきなり怒られたのです。
「そんな偉そうに座るんじゃない!」 ということでした。
担任と親二人、合わせてその3人は自分を叱る役目です。自分は叱られる役目。なので、申し訳ない態度をしないといけない、ということなのでしょう。もちろん、それはそうでしょう。しかし、これは単に知識の問題といっていいのではないでしょうか。
そのソファはとてもふかふかで、腰が沈み込むようなソファであったこと。そしてそのソファに座るということは自然にダラっとしたリラックスした姿勢になるということ(つまり、わざと態度が悪かった訳ではなく自然にそういう姿勢になったということ)。
そして二つ目が、3人が恐ろしく怒り狂っているということに気がつかなかったということ。
例えば就職の面接で、だれも、イスにリラックスして深々と腰掛けたりはしないだろう。それは自分はちゃんとしてます、という無言のメッセージだからだ。
3対1での話し合いは何にも覚えていない。
最初に、ソファに座った姿勢を怒られてことで、自分の中で何かが一瞬にして変わったのです。
そして疑問だけが浮かんできた。
姿勢はイスのせいなのに、なぜ、異常に怒られるのだろう? 
(このソファはそういう風に作られている、とわかっていた)
ではなぜ、普通のイスではなくこんなソファに座れと言うのだろう?
悪ぶってそういう座り方にしてると思ったのだろうか?
叱られに来てるといった物語に自分が参加していると、誰が決めたのか?
そしてその物語の通りにならなかったことに対して怒る権利はあるのか?
何か全て一方的な感じがするのはなぜなのだろう?
と、いろいろな思考がめぐりました。
普段まったく考えたことのない、面倒で、暗い、マイナスな思考です。
しかし、このソファの件で高校生ではあるが世間の常識というものにかなりうとかったこと、こうしなくちゃいけない、こう言うのが良い生徒だ、というのがまったくなかったことが自分の非で非常に幼稚であったことだ。しかし、いま思い出すとそういう幼稚な部分の自分は大好きだった。よく笑い、明るい、行動力があり悩まない、、だからいじめられてても大丈夫だったのだ。
そして、そのソファの件以来、親にたいして警戒感と嫌悪感が生まれた。
いままで親への感情は自然だった。特に何も無い、感情。反発も何も、無の感情。
しかし、この件以来、親を避けるようになった。かかわりたくない、話したくない、嫌な思いはしたくないと。たかが成績だけで、自分はダメな人間だと決めつけられてしまったからです。なによりも成績の良さが重要、だったのです。だからといって自分は勉強する様なことはしませんでした。勉強が嫌いだったのはもともとだけれども、親に認められたいとは思わなかったからです。
親が成績を気にするのは、せっかく高い授業料を払っているし世間にも自慢できる子になるように、、といったエゴです。自己満足です。成績以外の自分の明るい部分を見なかった親。でも、それでも親。それは親が「観念」だけで生きてきたからです。創造力がなかったのです。
普通の子供はこうだから・・
世間に恥ずかしくないように
良い学校を卒業していい会社に入るように
人から後ろ指を指されないように
人と同じように生きてほしい
目立たないように生きてほしい
・・・・・といった幻想で物事を考えていたからです。

教育の現場では、「生きるとはどういうことか?」「真の教育とは?」といった哲学的なことを教えることは無い。またあったとしても、変な宗教だったり、間違った教えであったら、逆によくないだろう。むずかしい。
しかし、インドでは、そういったこと、つまり「本当のこと」を子供にも大人にも、わかりやすく話している。日本はそういったことはしない、できない。日本では本当の豊かさについて、人間について、理解しようとする姿勢は生まれない。


あの頃の自分は外見や態度から人を見て、良いか、悪いかを判断することは無かった。
日々、恐怖も無かった。疑いも無かった。怒りも無かった。
だから、怒りと批判の感情しかないあの時の三人よりも子供である自分のほうが、ある意味、正しい人生だったのだ。


あの頃の、ソファに座った自分に、こう言おう。


「大丈夫。このソファはずいぶん柔らかいんだね」と言えばいいんだよ。
そして、君は何も悪くないんだよ、だからといって反論する必要も無いんだ。

「成績は悪かったけど学校は毎日楽しいよ。ありがとう」

「お父さんお母さん先生、そんなに怒らないでください」

と、それだけ言って他は何も聞かなくて良いよ、と。

「なんで勉強しないんだ」とういう質問にも答えなくていいよ、と。
答えることを強制されてもただ黙っていればいいよ、と。

 

彼らは、何もわかっていないんだよ。

 

 

なぜ今40年以上もまえのことを言い出すのかというと、
自分に起きたことに対して、人が納得できるよう困難をしても説明することが必要なのだろうか?
説明するということが「説得」になってしまったら自分の気持ちが伝わったといえるだろうか?
お互いに同じ精神状態でなければ説明をしても通じないのではないだろうか?
そもそも、人に説明するということに意味はあるのだろうか? つまり、
わかる人にだけわかってもらえれば良く、わからない人には本来説明する必要は無いのではないか?
わかってもらおうとすることには、期待、依存心、疑いなどが生まれるだけではないだろうか?
今回、会社を辞めるについて、もし辞める本当の理由を言うとしたら、自分の気持ちを説明しないといけません。そして相手のこと、従業員のこと、長い歴史にも触れないといけません。その必要があるかどうか?

説明するだけの価値はあるかどうか?

 

結論は、言う価値はないということです。

あのときの、ソファの時と一緒で、相手に、自分の気持ちを説明する必要、

つまり価値がない、と判断したのです。

あのころの部屋の状態を描いてみました。奥のソファに座っているのが自分、手前の長ソファが両親、左が担任。こんな感じで記憶に残っています。意外と明るい部屋でした。