ろくろく人生レポート

東京おとこひとり 改め:66才からの人生探求レポート

「死ぬまでの時間」という幻想

 

きのうは小雨がしみた。 浅草から引っ越してきてちょうど1年目。浅草でもジムに通っていたけれど、引っ越し直前に体調を崩したときに(下痢が2ヶ月も続いた時にウツっぽい様な重苦しい感じ+ぶっ倒れそうな感じ)、身体動かせば、心身ともにまぎれるかも知れないと思い、こちらに引っ越してから即、ジムに入会した。
今から思えば、ストレッチやスタッフと話している時にもなんとかガンバって平常を保とうとしている自分を思い出す。調子の悪いイメージになると、便意をもよおす。頭(思考)じゃなくて、「腸」が身体の指令を出してると断言できる。これは経験がないとわからないと思うが、気分が悪くなるまえに、腸の調子がまず悪くなり、それから気分が悪くなる。普段、悩みごとで葛藤しているときも、注意してみると腸が変だな?となった次に心の葛藤が芽生える。
で、これは想像だけれども、例えば恋愛などの傷心はもしかしたら「腸」じゃなくて他のところ(胸)かもしれない。(あまりイメージしすぎると面倒な方向へいくのでつきつめないが)
ということは、自分の不調のとき「腸」が何らか関わってるとしたらそこをいつも注意してれば、不快は起きないのかもしれないと思った。
そんな今日の雨の夕方、ふと、自分の寿命のことを考えた。
未来のことをああだこうだ考えるのは妄想で良くないことだと思っているのに、どうしてそんなことを思いついたのか?男の肉体的な寿命は平均75才ぐらい(今はもっとあがってるらしいけど、こういうデータも当てにはならない)ということは自分はあと15年ぐらいの寿命、という感じだ。で、そう思ったら15年でいったい何が出来るのだろうか?などと悲観的になってしまった。(大型薬局チェーン店の駐車場で上司の電話に出た時に)
いけない、いけない!、なるべくマイナスな思考はさけているのに・・・
(ちょっと哲学的になるが)「死」を恐れることと、「死ぬまでの時間」を意識したときを恐れることの違いを考えた。自分が今日、心が波立ったのは死ぬまでの時間を意識したときだ。あと少しじゃないか、、、といった思いつき。「死ぬまでの時間」という漠然とした時間は、想像の産物で、実際に存在しない。なぜなら、「死」ぬ瞬間に初めて「死ぬまでの時間」が決定する。それまでは決してわからないから。
ということは、「死ぬまでの時間」で不安になるのは存在しないものに不安になることで、おおいに馬鹿げていると言うしかない。
15年しかない、から不安になったのか、20年なら?30年あれば不安にはならないのか?30年なら不安にならなかったかもしれない。
ということは、心が波立った原因は15年と言う、時間にだまされたことになる。
「死」と、「死ぬまでの時間」は言い換えれば、「生」と、「生きている時間」とも言える。生きていることが人間の苦しみを生むのであるから、死ぬときまでの苦しみと(そういう苦しみがあればだが)同じということだ。つまり、この「時間の意識」に全てが左右されると思っているところに、不安の原因があるように思う。

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2012年の部屋の整理。