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おとこひとり

60才まえに会社を辞める決心!悩んで身体壊して見つけたもの。

「ベニスに死す」を観た感想

映画・DVD

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Death in Venice を観ました。

たくさんの方がいろんな解釈をされている作品です。原作を読んでいないので映画での自分の感想を述べさせていただきます。

まず、なによりもすばらしいことは、映像だけのシーンがほとんどで、言葉のシーンは映像に比べたらほとんど無いといっていいほどありません。原作は文字、映画は映像。まさに「映画」というにふさわしい映画でした。なので、頭で解釈する必要がなく、監督のルキノ・ヴィスコンティの思惑に任せて、感覚で観ることで疲れを感じずに映画の世界に入ることができました。

全編美しい映像はもちろんですが、主役のダーク・ボガードの細かい心理表現が演技とは思えない静かなる迫力があります。

自分が気になったのは、最初に美しい少年と出会うシーンです。

アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は若く美しい少年タージオをロビーで見つけます。そのときのアッシェンバッハの態度、目の動き、顔の表情、タージオがロビーから出て行くまで彼を目で追う、振り向いたタージオと目と目が合う・・・。

アッシェンバッハのこの表情と動きは、好きなタイプの人物を見たときにハッとした驚きと嬉しさ、ずっと見ていたい、という気持ちそのものです。それも同性の相手に対してなので自分で自分の気持ちを確かめるように、自分の道徳観を脇に何度も何度もタージオを見ます。よく、表現されています。

 

アッシェンバッハは同性愛ではない。という評論の方が多いように思います。これはどっちでもいいかなと思います。「こんなにすばらしい映画の主人公が同性愛とは、けしからん。」と言いたい気持ちもわかります。テーマは同性愛ではないと思います。しかし、女性には無いもの、いままで気づかなかった欲しいもの、を少年タッジオに感じた。

タージオの母親も出てきます。それは非常に美しく品のある女性です。なぜ、そんな官能的な美しい姿で映画に出てきたのでしょうか?アッシェンバッハが夢中になってもおかしくはありません。男性なら誰もが振り向く女性像で描かれています。その彼女に対してアッシェンバッハはまったく眼中に無い。ということは、外見は美しいが生々しい現実の人間の女。肉体を持つ女。化粧の匂いのある女。着飾った女。子宮をもつ女。そういった人間的なものに疲れ、魅力を感じず、そうでは無い別の存在、人間の匂いのしない存在。「人の手で汚れていない美」(もしあればだが)。「神の美しい作品」。を、彼は、愛した(と、あとで気がついた)。

それは、ロビーにいたタッジオを見たときには、まだ気がついていなかったのです。

 

女性が劣っているとか男性が優れているとか、善し悪しではないのでここで言っておきます。男と女にはそれぞれに個性、または本質というか、そういう違うものがあると言っているのです。そして、この映画では、美しい顔をしているのに足でドアを蹴飛ばし閉める乱暴で無教養な娼婦。豪華に着飾ったブルジョアの婦人たち。しかし、どちらも見た目は非常に美しい外見をもつ女性である。あえて、そう言う女性を出すことで、そこに、アッシェンバッハの求めているものは無い。と、監督のルキノ・ヴィスコンティは描きたかったのではないかと思う。

 

夜、街の楽団が、ホテルのパティオを練り歩きながら演奏するシーンでは、その下品で低俗で俗物そのものの演奏とは対照的にブルジョアの客が描かれています。白塗りで歯が欠けたギター弾き。その下品さは、アッシェンバッハのもうひとつの顔ではないだろうか?彼のみっともなく、下品で、みじめな恥ずかしい姿。それは、今、タージオを追う自分の本当の姿ではないのか?

映画冒頭で出てくる、白のスーツに胸には花、顔は白塗りに口紅の道化師のような酔った老人。同じく白塗りのギター弾き。彼らにアッシェンバッハは自分自身を見た。

人から嫌われ、みっともなく、しかし生きてゆく。

 

後半に、タージオを「愛している」と自分の気持ちを小さく叫ぶシーンがあります。そのときに、彼は気づいたのです。自分が求め愛しているのは、女でも家族でも子供でも音楽でも芸術でもない、彼、タージオ。いや、それだけだなら、ただの同性愛になってしまいますが、そうではなく、タージオ自身ではなく、彼の持っている、ただ存在するだけの「命ある美」「光り輝く命あるもの」「自分がけっして創造できないもの」「自分が芸術などでは造れない美」。いままで追い求めてた音楽・芸術の、なんと軽薄なことか。女性のもつ魅力の、なんと俗っぽいことか。

 

彼、タッジオの中に「尊厳ある美」を発見したため、答えは彼、タージオにある、そう思い、命をかけて彼のあとを追ってゆくのです。自分が本当に追い求めていたもの。だから、「愛している」と言ったのです。

回想シーンでは彼の妻・子供と幸せの場面がありますが、キスシーンはあります。が、「愛している」とは言っていないのです。「幸せ」と「愛」は違うのです。

 

規律あり常識的であり感情的ではないアッシェンバッハ。
その彼が高揚し叫ぶ、「愛している」と。
その言葉は、「真に美しい」と、言い換えられないでしょうか。

半世紀以上生きてきて今、音楽界では芸術性を批判され妻も去り子も亡くし心臓を患い、そういった逆境だからこそ、自分が芸術では創造できない、神の作品である調和された美=タージオが、自分の求める全てになっていったのではないでしょか。

生意気な感想でした。

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迫真のシーン。