ろくろく人生レポート

東京おとこひとり 改め:66才からの人生探求レポート

デザインすることを目的にしたデザインに気がついてないデザイナーだらけ

何となく録画しているテレビ番組「マツコの知らない世界」を観ていたとき、マツコの知らないパンの世界」っだったか、パンのいろいろの特集であったが、それを観ていて、目から鱗が落ちました。 

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ゲストが言った一言、

「看板やパンの文字は戦後すぐはデザイナーがいなかったので看板職人が作ったものが多い」

これです、これ。

 

何なのかを、長々と説明します。

 

まず説明しないといけないことは、自分は仕事では、面倒なのでデザイナー、またはアートディレクターと一言で紹介していますがグラフィックデザイナーではないのです。ロゴ文字をデザインしたりパッケージ作ったりカタログなどの紙ものをデザインしたり最近はウェブデザイナーというものもありますが、それらひっくるめて「平面」のデザイナーとジャンルずけますが、自分はそうではありません。

それで、若いときからいつも思っていたことは、

平面のグラフィックデザイン、その作品とデザイナー自身らを、

  「 気取ってて好きじゃない 」

とか、

  「 ミニマムをやたら自慢した作品ばかりでドヤ顔してるのが見える 」

とか、

  「 カッコいいでしょ、の主張ばかりが見える」 

とか、

  「青山・六本木・恵比寿・麻布 の腐ったエリアでのウケ狙い」

とか・・・

そういう風に思ってグラフィック的な処理が大嫌いで、いまも嫌いなのです。程度問題ではあるが、だいたいは「ステキにカッコよくデザインしました」的なものだけが目立って、デザインすることが目的でザインされたことがわかって気持が悪いだけです。

自分はデザイナーというものがほんとに必要なのだろうか? と、常々思っていた。 デザインすること自体は必要だが、[ デザイナー ] は必要ないと思う理由は、こういったミニマムシンプルでアイデアに溢れた発想での作品は、デザインすることが目的となり(目立ち)、「高飛車」で「イヤミ」なのだけであるから。

削ぎ落とされた空間でミニマム的なモダンな寿司屋と、下町の古くからのままの年代物的な寿司屋と、どっちに行きたい? 下町のほうがおいしそうだし古さも魅力だしカッコつけなくて気分が良いにきまってます。 こういう例をみるに、すべての場所にデザインは必要ないのです。

「やっちまった!」という感じのものあるじゃないですか?!

必要ないところに何でこんなことしたの?とかやりすぎ違う?とか、そう思う場所やモノがあると思う。たとえばファッションも、何でそこまでやるの?あなたに合ってないよ。もっと自分を知らないと。とか。モノもファッションもそもの自体の「らしさ」が無くなるようなことをしたらいけないのです。エリアも近代的にすれば良いということじゃないように。

 

しかし、デサインすることになってしまった場合、必要なのは、

 

  「そのもの本来に合った[らしさ]を守ること」であると思うのです。

 

そこで、「マツコの知らない世界」の話しでありますが、

パンのロゴや看板を看板職人が考えていた時代、そのロゴ文字や看板はとてもいい味を出していて、イヤミじゃなく、ミニマムでカッコつけたモノじゃなく、パンに合ったものであり、そのものらしさが溢れ魅力的であり、こちらのほうが正解であるのです。

当時は看板屋が頭をひねって文字を作った。そこには、商品の良さを第一に考えて究極のオリジナルなスタイルを作ったのです。いまは、そうではありません。パンだろうがワインだろうが酒屋だろうが工作機械だろうがシャンプーだろうが、ものの個性を考えずに、デザイナー達がメディアに受けるだろうという意識でマネにも等しい同じスタイルの文字や柄で仕事をした気分になっているのです。デザインとは、それを大学や専門学校で学んだ者が考えると、とんでもなく勘違いしたものが出来上がる。むしろ、営業職の者やデザインなどに関係ない者が仕方なく頭をひねって出たものが一番そのモノにそぐっているのです。グッドデザイン賞などあるが、くだらなく、あれが良いデザインだなんて世間に知らしめることは間違えである。

 ”グラフィックデザイナーとしての専門職は必要がない”

 ”デザインすることを目的としたデザイナーは必要ない”

を、この番組を見てて確信しました。