昨日、書いたことについて つづき。
考えて、考えて、考えて、、何ごとも考えれば解決する!とずっと思っていた。
考えない人はバカだ、と思っていた。
つねに人を判断していた。枠にはめ込み考えていた。
しかし、
それは間違えだとわかった。
間違え、というよりも考えることで意識は活性化し「何が正しいか何が間違っているか?」で結論付けようとしてどんどん悪い方向へいってしまうことが起こるのだ。そして絶望的な判断に達する。
不愉快な人に対して思う「なんで?」は意味がなく悩んで意識すれば自分がすさんでゆく。不愉快な人はそういう「役割」で存在してるだけで、その存在の「役割」を認めた時、自分の意識は動かなくなって無意識な世界で自由に生きられる・・・
こういう思考でいくと「人と真剣な付き合いができないのではないか?」と考えてしまう。 しかし、人を好きになったり気にいったりするとそこで思い込みや期待が入ってしまい相手の本当の姿も見えなくなることがほとんどだ。だから結果的に何がその人の真実かはわからなくなるのであれば、「人の気持はわからない。自分の気持すらわからない」と考えてもいい気がする。
だったら、決めつけや期待やそういうものを排除して意識しなければ、「その人はその人、そういう人」と、ただ認識するだけで怒ることも疑問に思うことも無く、良い付き合いができると信じる。
自分がどこか「宙」を見ているような現実感の無いそんな人になってしまう気もする。
でも、そこまでいったら逆にたいしたもの。この雑多で混沌とした世界でそんな仙人のようになるはずがない。だから、十分、自分が楽に生きれるように考えていっても問題ない。
しかし、 おもしろい。
見方によって世界の色が違って見えるということはこういうことだったのだ。
映画で主人公の気持の反映でシーンのカラーが華やかになったり暗くなったりと表現され観てるほうに伝わる、あの説明的な映像の意味が現実になる。
同じ風景、同じ人間、同じなのに考えを変えるとまったく違った世界が現れる。
現実にいる人や場所や状況が変わるわけじゃない、悪い人はそのまま存在するし環境もそのまま、でも、自分の見方を変えれば自分が自由になって世界観が変わる。
しかし、こういうことを考えているようではまだまだ楽にはなれないかもしれない。
考えなければいけない、考えれば答えが出るものだと思っていた。しかし、それは間違っていた。
「本当のこと」「本当の世界」「正しいこと」そんなものは最初から無い(たぶん)。
「正しいか正しくないか?」も意識が勝手に判断していること。もちろん自分が思う正しいことはある、しかし、人をそれで判断することに意味は無い。ということだ。
嫌いな相手のことを、あの人はどういう価値観をしてるのだろう?どういう幼年期を過ごしたらああいう風な人になるのだろう?嫌な性格は自分でわかっているのだろうか?・・・攻撃される理由を知りたいがために、そんな風に相手のことを理解すること自体、間違っているとハッキリ言いたい。そんなことをしたら相手の悪い部分がさらに自分の中へ入ってきてしまう。考えることで相手を取り込んでしまうことになる。
小さい時から刷り込まれてきた思考。
自分の意識で自分にかける「思い込み」と言う自己催眠。
ただ、楽に生きたいだけ。
ただ、人を憎みたくないだけ。
怒りも絶望も不安もない自由な自分でいたい。
人生で望むのは、
ただ、それだけ。