アスリート達の体の比較 だそう。
筋肉の付き方の差。
ここ最近 スポーツ選手の不祥事が 表に出始めた。
暴言をはく、不条理なことを言う、殴るなど、そういう人タチはスポーツ界に限らずブラック企業にもまったく同じ人たちがいる。
自分のフラストレーション(欲求不満)を解消するために、他人をいじめる最低の人たち。
たまたま、スポーツ界で告発する人たちが出てきただけで、
どこにもこういう否人間はいる。
権力を持ったヤツがこういう性格の場合、悲惨な状況になる。
誰も反発できない、悲惨な現場である。
ここまでくると、そういうブラックな人間というのは、
必要悪
ではないか?と思う。
「必要悪」などと、「悪」を認めたようで嫌な言葉だが、「闇」がないと「光」が無いように、「悪」がないと「善」は存在しない、のではないか?という理屈が成り立つ。
北朝鮮自体が、中国とのアメリカの、かんしょう剤であることと同じで、
「悪」は何らかの存在理由があるのではないか?
この世がすべて「善」である世界になるということは、
そうなったときには、もう「善」の意味華くなる。
比較する「悪」がないわけだから。
暴力でフラストレーションを解消する人間が、まだいると言うことは、
数百年、数千年以上経たないと、
知的生命体になれないような気がする。
またその逆で、人間は悪いほうに退化する可能性もある。
宇宙人(エイリアン)が地球人の前に姿を現さないのは、(いるとすれば)
地球の人間の知性が、まだ、恐ろしく原始的である(暴力的・理性が無い)から、姿を見せる時点ではないと判断しているからだと思う。
古代ローマのグラディエーター達は実際に殺し合ったように、
現代のボクシングや格闘技など、直接に人を克服させる競技は、
「ルールのある暴力」である。
それを観るのが好きな人がいる。
何でだろう?
スポーツだから殴り合っても、ねじ伏せても、いいのか?
いくら個人的憎しみが、そこに存在しないとは言え、
「人をねじ伏せ克服させる」ことの意味は、いった何だろうか。
相手に勝利したあと、征服した、という感情が無いわけは無い。
そこから、支配欲は生まれないのか?
そこから暴君が育つ芽が生まれないのか?
スポーツの目的が「相手を倒す」というものなら、
個人的憎しみの無い暴力・フラストレーションの発散・征服欲を生む野蛮な行為、と思っている。
(これに関して意見が人それぞれであると承知しています)