モノの”かいしゃく”のしかたには 二通り、ある。
たとえば、
タマネギを説明しなさい、と言われたとき、他人はどう答えるだろうか?
A.「タマネギは身体に良くいろんな料理に使えて、比較的安く、生活に欠かせない野菜である」
と言うのか、
B.「タマネギは中心から外に伸びる張りのある球面で、生命力があり、潤いのある中味と、薄い皮にはシャリ感とツヤがあり・・」
と言うのか、
この差は、普段、何気なく視界に入るもモノを(最初に)どうみているのか?の差である。
この上記のかいしゃくの差は、世界をまったくちがう始点で見ていることにならないだろうか?
いや、なるとおもう。
いっけん、同じ物を見ているようで、まったくちがう。
タマネギの本質ではなく、料理に便利とかニガいとかが最初に思う人は、ひじょうに現実的で即物的で合理的な人である。
目に見えない感覚を、最初に感じるか、感じないか?では、今、自分たちが生きている世界のあり方がまったくちがってくる。
きょくたん言いってしまうと、5感で見る人は精神を病んでいるかのように他人と共感することは少ないし、他人からヘンケンに思われる場合が多々ある。
自分はもちろん後者である。したがって、人との会話において、たびたびトンチンカンに受け止められるが、卑下などしない。自分のほうが正しい物の見方をしているのだから。
物質を物質としか見えない人と比べて、むしろ、見えている物質自体には意味が無いという、自分のほうの精神構造が本物であると言える。