おとこひとり

61才おとこがひとり語るモノコトのいろいろ

病気や障害や自然崩壊などの本当の原因はいったい?

 

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きょう書こうとしてることは、物質主義者や、物質がこの世をつくってる、、、としか思えない人にとっては、考えにくいことです。

たとえば、

友達同士が、けんかして、言い合って、そのときのイヤな感情はしばらくの間、お互いの心にあり、そして、しばらくして仲良くなったり、そのまま仲たがいして絶交したりと、いろんな結果になると思うけれど、争ったときに吐き出した「否定したり怒ったりしたときの感情」は、個人の心の中だけに存在するという考えが普通だが、しかし、その吐き出した感情は、空間のなかでカタチのない状態でただよい、目には見えない場所にずっと存在するのではないか?と思う。


なぜ、そう思うかと言うと、
宇宙を考えたとき、物理学では宇宙の質量は増えたり減ったりせずに変らずに存在する、と考えられている。たとえば、星が寿命で消滅し姿がなくなり、ガスやチリになったとしても、宇宙の質量はまえとかわらないのである(ゴミ箱へ移動してもゴミが無くなったわけではない、ゴミを燃やしても分子が変化し小さくなって見えなくなっただけで、消滅したわけではない、のと同じで)。


地球を含む宇宙空間の質量は、新たに増えたり減ったりすることは、無い。という仮説のうえで言うと、人口が増えても、どこかで人口が減り、またはそれ相応の「何か」が変化するかで、世界の質量は変らない(変ることができない)と、考えるのが自然である。
数字、で考えてしまうと、人口が減ったり増えたりという変動はあるのだが、計算上は増減があっても、目に見えなが存在する「質量」、で考えるのだ。


ここで考える「質量」とは、カタチのない、目に見えず、重さも計れない「思念」とでも言っておく。


工場で、まいにち清算される機械部品も、洋服も、野菜も、ただ増えていくだけのように見えても、じつはまったく変らない質量の世界で「ある何か」が変化しただけであり、では、代わりに姿を変えた「ある何か」は何か? というと、物質ではなく、意識として=「生産」が起こった、わけだから、「消費」という行為が、生産を相殺する意識であると言える。(物質が増えたから物質を無くすのだ、ということが相殺、、ではない。)

増えたように見えても、別の場所で減っているので、全体の「質量」は変らない、ということを一つの摂理(せつり)とすると、
最初に書いた、人がケンカをして怒りや憎しみを吐き出した場合、その目に見えない感情は空間に存在し続け、けっしてなくならずにどこかに溜まり、正しくは、その感情が空間中に増えたわけではなく、「何か」が怒りや憎しみという感情に姿を変えて、同じ質量の地球上・宇宙空間上に存在することになった、、、と考える。
(つまり、世界の質量はずっと変らず一定であるから。)
そして、「何か」から「怒りや憎しみ」に姿を変えたものは、次のステップでちがうものに替えられることを待つ。つまり、負の感情をそのままにしておくと、負の感情が多くなり、ひどい世界になっていくということが考えられる。だから、怒りや憎しみを発したら、こんどは、やさしさや許容やいたわり、といった正反対のものを放出し、プラスとマイナスでゼロになるように、相殺してバランスをとることが秩序を保つために大切であると考える。相殺されずに負の感情の比率が多くなってしまうと、アンバランスになり、秩序がくずれ、結果、精神や自然に障害が起こるのだと考える。

どうだろうか、この考えは?

この、”質量は変らない” という理論から言えば、「死」は消滅ではなく、変化であり、その反対の「生」が変化したものだ、と言える。つまり、「輪廻」は必然的にある、と言うことができる。