ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

「死」をいっしょうけんめいに考える

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いつもの話題であるが、

自分はどうも「死」について考えるのが好きなようである。

でも、かんちがいしないでほしい。

死の話題が好きだからといって自殺願望とかはまったく無い。

むしろその逆で、生きている今をどうしたいか? とか、どう生きるか? とかを考えるのには、「死」を考えないと進まないのである。

なぜか?

それは、死んだらすべて真っ暗で無で終わり、というのではないという発想のもと、死の先には今生きている、たかが100年たらずの人生より、死後の先はたぶん、もっともっと、長いのだろうということ(もちろん時間の観念がなくなると思うので、長いかは感じないだろうが)。

そうなると、いま生きていることは、死んだあと、または来生までのプロフィールにすぎず、現世は100年たらずで、できることは限られてとても短いから、そういった風に考えていけば、とても長期で考えられる。

人間が100年前後しか生きられない理由は、死後に続くプロフィールであるから、と、考えると納得いくのではないか?

それに、物質の世界は100年でいったん終わって、次の世界を体験してゆく、といったSFチックなことも、実際にあり得ると思う。

とはいっても これは理屈かもしれない。

自分のように守る者たちも家族のないものには、「死」を永遠の別れではなく自分をずっと生きていくから、何にも固執はしない、と、そう自分だけの世界で考えられるが、家族持ちの人たちは残された者たちへ未練があると思うので、子供が・・・とか、妻が・・・夫が・・・お墓が・・・遺産が・・・とか、そういう風にリアルに考えるのが普通である。

こんな風に言ってるが、死は怖い、死にたくない。

死んでだれかと別れるのがイヤだとかテレビが観れなくなるのがイヤだ、とか言うのではなく、ほんとうに怖いのは「死に方」だ。 痛い死に方、苦しい死に方(それは運命かもしれないが)死ぬこと自体より、死ぬまでに苦しみがあるなら、それを生きてる間に克服したい。だから、常に「死」をテーマに考えるのだ。