ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

新年の(または願い事)参拝について

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年末最後の日に裸で失礼いたします(意味無し)

 

もうすぐ新年を迎えるといっても、何もとくべつなことはなし。

田舎に帰ることもなし。

いつものように月日が過ぎるだけ。

主婦だったら、故郷に帰郷したり、義理の親にあいさつに行ったり、とても忙しい年末年始になるのでしょう・・これらの行事で、そうとうなパワーを使うでしょう。それが、普通の暮らし、ってもんなんでしょうね、きっと。 ドラマのある人生、、、というのでしょうか? 良いも悪いも、家族や兄弟、親戚のしがらみがあって、オーバーに言えば波乱万丈ってうのでしょうか?

年が変わるのは、キリがいいので、何かを決めるきっかけにするのにはもってこいです。

新年に神社にお参りにいく人は多いと思いますが、ある書によると(少しアレンジしてわかりやすく書きます)、

神社というのは、その土地を守るとか清めるとかの意味合いがあり、仏(お寺)というのは救いを求めるもの(ところ)(供養)だから、ちがうものなのだ・・・

という解釈。

またある書では、

神は、たたってあたりまえ。神は、たたるもの。だから、祀ってあたりまえ。それを救ってくれるのが仏だと・・・

という解釈。

 

新年に最後に参拝に行ったのはもう、何十年も前になります。

何も考えずに、遊び感覚でイベントのように参拝する。

しかし、もう、願い事をしに参拝にはいきません。

神社にお参りに行き、

「どうぞ仕事がうまくいきますように・・」とか

「彼氏と恋人になれますように」

「宝くじが当たりますように」

と、願うのがあたりまえになってるが、これは、私利私欲である。何百、何千という人が神社の前で自分勝手な欲望を願ったら、それは相当な負のエネルギーとなって、さい銭箱の前に渦巻くのが想像できます。

神も仏も信じなくても、同じ場所にたくさんの人の欲望がたまっていくと考えたら、その場所、つまり神社でもお寺でもお稲荷さんでも、聖域と言われる場所が、一転、負の場所に変化することもあると思います。だから、欲望を願うために神社に行くのは恐ろしいことだと、思います。 もう一つ、その書によれば、神社は昼の顔と夜の顔はまったくちがうということです。

昼間はおだやかでキレイな空気につつまれていた、と感じても、夜になったらまったくちがった顔になり、きょくたんに言ったら「呪い」の場所と変化するのです。