おとこひとり

62才おとこがひとり語るモノコトのいろいろ

スポーツは差別と独裁者を生む

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1964年 昭和39年10月10日 東京オリンピックがあった。

このとき小学生ぐらいになっている人は何となくの記憶があるだろ?

自分は競技をしている人の姿はおぼえていないが、マラソン甲州街道の折り返し地点で見た記憶がある。他は、すべて市川崑の記録映画で、である。

 

まわりにはオリンピック、フィギュアスケート、バレーボールにサッカー、最近はラグビーと、スポーツ大好きが大勢いて、それが国民のあたりまえのこと!・・・だろうが、彼らに向かって自分の信念を語る気もないし、言ったら逆にぶん殴られる可能性もある。だから、ここだけで言えることだ。大多数のスポーツ好きにケンカ売ってるような考えだ。 でも、数人は自分と同じ考えの人が居るのでは?・・・と思っているので、書こう。

(誰もこんなこと思ってないだろう。皆、普通に楽しくスポーツ観戦、勝敗を楽しみにしたりどこかの熱烈なファンだったり、テレビや夕刊に釘付けになってるのだろう。しかし、それが自分にはひじょうに居心地が悪い。)

 

スポーツは博打(ばくち)

スポーツは優劣の正当化

スポーツは、

人間の「負」の部分の正当化。犯罪防止のガス抜き。

だと思わないか?

 

だれもが、勝った負けたと盛り上がるわけだ。つまり、博打(ばくち)が好きな人たち。じゃあ、博打(ばくち)はいけないの? 法律で罰せられるの?パチンコも野球もラグビーも、みんな見て、やってるじゃない?

そう、いいんです。かってに楽しんでもらって。

でも、こういうことに気が付いたことはありませんか?

車を運転する人の顔の表情に「残酷さ」が出ていることを・・・真剣に運転しているからあたりまえ、ということを言っているのではなく、思うに、運転は他の車と勝負するかのようなかけひきがある。博打をする者のように人を寄せ付けない顔付きになる。

また、野球観戦、サッカー観戦をする多くの人たちの表情も、周りが何も見えなくなり、普段とちがった眼光を放ち、人を寄せ付けない残酷な顔になることを知ってるだろうか・・・?

 

人を犯罪へ向かわせないようにするためのガス抜きのツール、それがスポーツ。

 

「人と競うこと」に、みな嫌悪感はないのだろうか?自分自身を鍛えるのとちがって人とくらべて上に行こうとすることは、一見、向上心の手段のようで悪くないと思いがちだが、小さな戦争である。危険な芽が芽生えるきっかけじゃないか?と、思う。

とくにボクシングやテコンドーのように格闘技系のもの、ローマ時代のグラディエーター達の殺し合いに近いぶつかり合いのものを表舞台に上げることで、競技だから殴っても良い、といったことが、あたりまえのことのなってしまうことに、不安は無いのだろうか?

口では、スポーツの祭典は、政治と切り離して考えないといけないと、キレイごとを言っているが、オリンピックは政治と金そのものであることが、今回の札幌移転の問題であらためてわかったことである。

大会で良い記録を出そうとする若い競技者は、純粋に練習しているだけで、何かの問題が起こった時に、逆に無知の悲劇となる。

体操のキミハラ夫婦の独裁政治。前のニュースなので忘れたかも知れないが、彼らもオリンピックメダリストだというだけで、体操界で独裁者になってしまったのである。社会の勉強をしないで権力をにぎってしまったから。就職を一度もしないで社長になったようなもの。

日大の監督が、無知な選手を将棋の駒のように動かし命令し、恐怖政治そのものの事件も同様。こんかいの、テコンドーの事件も、他にもたくさんあって、どーしよもない悲劇ばかりである。

純粋に学校で競技をしている人たちは、スポーツというものが、

=スポーツ→→勝敗→→博打(ばくち)→→優劣→→差別、を生むもの。

だと思わないといけない。

さらにオリンピックは個人ではなく国別でやってるわけだから、

国の勝敗→→国の博打(ばくち)→→国の優劣→→国の差別

 

そして、スポーツしかやってこなかった者は人生勉強をしてないため、勝利者は年をとって偉くなり、政治家になったり、団体で独裁者となる。

 

「スポーツは心身の健康のために国民はみな参加しましょう!」などというキャッチフレーズで、戦後、みな、ウソを刷り込まれたのである。

 

スポーツは優劣と差別を生むものである

スポーツはおろかな独裁者を生む

人を犯罪へ向かわせないようにするためのガス抜きのツール、それがスポーツ