ろくろく人生レポート

東京おとこひとり 改め:66才からの人生探求レポート

「実感」といったものを求めているような気がします。

 

毎日自分をみると、リアリティーが薄く、自分の行動(たとえば道を歩いて遠く景色を見たり大勢の人を見たりバスから景色を見たり)が自分がしているのではない様な、しらじらしい、少し離れて観ている様な、そんな気がします。冷静というのとは違います。わざとらしい行動や生き方なんじゃないか?と、思うこともあります。そのとき、その時を一生懸命生きてないからなのか?というと、そうでもないし、我を忘れる様なドラマチックな出来事がないせいか?ということでもないし。
もしかしたら人との会話がまったくないせいかもしれない、とも考えてみました。(ほとんど声を出すこともないのでたまに出すとガサガサの声になってます)

他人は自分の認識に関係あるのでしょうか?
自分のリアリティーはどうやって確認したらしいのでしょう?
確認できるものなのでしょうか?
自分は「実感」といったものを求めているような気がします。

人間は自分の位置(存在)を他人を使って判断(認識)しているんじゃないのか?と思うことがあります。最近、テレビを廃棄しました。それまでは部屋に帰ってきてはすぐテレビ、寝るまでテレビ、起きてテレビ、という生活が変わり、映像とはいえ人間を見ることはなくなりました。テレビは、たださわがしく、隙間をつくらせない、観ないと自分がわからなくなるのではないかという不安と強迫観念をつくりだし、その外部の情報から「これが自分である」と思い込ませていたのだと思います。
会社に自分のデスクがある、同じドラマの内容を知っている、SNSでつながっている、他人とのおしゃべりやテレビ、ラジオなどの情報で自分を確認する、など、ただ状況を共有し安心することで、自分が「存在」していると勘違いしているように思えます。

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6年前2010年7月の日暮里界隈の古い路地。トイレもある。とても生活感のある現実を感じられそうな場所だが映画のセットのようにわざと作り上げた空間ではない。誰もわざわざこの雰囲気をねらって、作っている訳ではないだろう。自分たちが客観的に観て「こういったイメージの場所」と、そう観念化しているだけだ。この対象と一定の距離のある観方は自分の(自分たちの)感じ方のひとつだが、実際にこういうモノたちや空間を目の前にしても一緒にいるといった実感ではなく決定的な距離感を感じるのは、近所に住んでいないからとか生活が違うからという、そういうことを言っているのではなく、自転車にしろポリバケツに看板にしろ、奥から歩いてくるおばちゃんにしろ、向こうから見て自分が透明である、(自分自身が非現実だった!)というような表現が一番近いかもしれない。(すいません、変な表現でややこしくて。)