理屈っぽいとお思いでしょうが・・・気になっています。
美術系の人ならば デッサンでの基礎であるモノを正確に表現すること、それはカタチもそうだがモノには「重さ」「温度」「質感」などの本質がある。それを認識できないと絵では表現できない。美術を志すものは何でも描け(表現でき)なければいけない!と教えられた。
こういった勉強をしてしまうとモノの見方が普通の人と変わる。
ものを最初に「名前」で認識しないのである。
ものを見たときに最初に「重さ」「温度」「質感」で認識するようになるのだ。
「名前」で認識する普通の人は、たとえば500円コインをみたときに、お金である500円玉、という普通の認識であるのに対し、
まず、金属であること。冷たい触感であること。重さを感じること。これらを瞬時に感じ、その後に言葉である「お金」という名前が来るのである。
であるから、モノに対する情報の量が普通の人より異常に多くなるのである。
その弊害として人から何かの印象を聞かれた場合、相手にとっては非常にとんちんかんな表現を言ってしまうことがあるため、いちいち普通の人に合わせて言葉を選ばないと通じないといった面倒な現象が起こる。
このような感覚的な表現は一般社会や会社ではまったく通用しない。それどころか「不思議ちゃん」と思われてしいまう。説明的な言葉はとてもわかりやすい反面、創造力を無くし直接的であり、豊かさを無くしたただの名前の認識、名前の情報交換でしかない。
たとえば誰かと映画やショッピングすると、シーンやお店でみた雑貨に対する感想がまったく相手と違うため共感できないといった不幸が多々ある。
そう言う人や社会はとても疲れる。
だが、同じく感覚的な人であったなら少しは楽に居られるだろう。