ろくロク

食・病・死・筋トレなどについて書いています

何もしなかった(考えなかった)ら、長い自分の歴史に汚点が生まれる

きのう、マクドナルドの「人間の歯」の混入事件のことを書いたけど、こんな事件があっても、人はどうしてマクドナルドで食ってるんだろう? 涼しい顔して、いつものようにスマートフォン充電しながら。事件を知らないのだろうか? 

ウソだよ、そんなの、たいしたことないね”、と思ってるのだろうか? そんなことより安くて便利なことを優先してるのだろうか?

彼らがどういう意識で、いまだに食ってるのか自分にはまったく、わからない。

自分はかなり主義主張がうるさいやつだ、と、自分のことを思ってるけれど、疑問視をしないことは、自分自身にウソをついてることだと思う。

 

自分にブレーキをかけないで楽に生きていれば、”人の歯”が入ったハンバーガーを食っても「別に・・」で終わるし、どんな事件があっても、「そんなの気にしなくても死にやしないしネ」で、終わるのだ。

でも決定的なちがいがある。

主張する=考えを持つ と言うことの重要性は、「何もできなくても意志を持つ」ということであって、自分自身の歴史(魂)に書き込まれるもので、誰かのためにするものじゃなく、何もしなかった(考えなかった)ら、長い自分の歴史に汚点が刻まれる。

床に落ちた食い物は絶対食べない、と言う人と、少しぐらいなら大丈夫、といって食べる人、これは、本人自身が決めて、本人が自由に選択できる事柄だから、どっちでも良い。でも、他の人が起こした事件、サギ、犯罪、(に近いことも)にたいする意見をしっかり持つということは、落ちたものを食うか食わないか、とちがい、とても重要なことだ。

たいへん理屈っぽくなったが、「おかしいんじゃない?」と、思わない人が多すぎる。

 

 

人の歯が入ったものが発覚したのに、なにもしない企業。しかし、何も意識しない一部の大衆。宇宙旅行に行こうと考えたり、金と陰謀で大統領になったり、大きくかんちがいした高級感がイヤミな内装と建物を造る企業。これらの企業からお金をもらってるから何も言えないのだ、、、という精神的弱者たち。 

 

自分たちは、

「死ぬときに、ちゃんと自分の考えを通して生きたから満足だ・・・」

となるか、

「がんばって、ここまで貧乏無く生きられたけれど、自分というものが無かった人生だった。・・・」

となるか、どちらが本人にとって幸せな人生だろうか?

 

※写真は広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)