東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

考え方のちがいを議論することは、溝が深まるだけである。

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以前に書いたことだが、他人とモノゴトにかんして、意見を言い合ったりすることで、何かに気がついたり、することはあると思う。それは、だいたいが日常のたわいもないことだったり、単純なことが多い。

なんでもない便利情報などは、とくに気にするものでもない。

こと、個人の生き方などに対して、他人が他人に、「君、まちがっているよ」「こーしたほうがいいよ」ということは、言った本人がそれを「正しい」と思っているから言えるのであって、なぜ、人は人に対してそういうことが言えるのか?と、言うことを考えたい。

(仕事で規則があって、それに沿って仕事をするような指示、であることは除く)

しかし、仕事ではなく、日常の生活の中で、それぞれに、ちがう人たちのなかで、人に対して、「それ、おかしいんじゃない?」とか、言いうことは、ただの批判にしかならないのではいか?と思う。

なぜ、そう思うかと言うと、

そのまえに、「信念」ということにたいして、とても重要なものだと思うことから話そうと思う。

信念とは、自分自身が思うこと、貫く考え、であって、それが善悪に関しても、正しいか、まちがってるか、は関係なく、自分が信じて一生を突き進んでいけるだけの、ブレない考えである、ということだと思う。 ただの文句を言っている古くさい頑固者、、というのとはちがって、一貫した考えをもつ、ということは、それを他人に強要したり、話したりすることではなく、ただ、自分の心の中にしまっておく大事な思考である、という風に考える。

ここで言いたいのは、信念をもち一貫した考えがある人は、けっして他人に強要することのない自己完結の考えをもっている人、であるということ。

 

「言葉」というものは、とても めんどうで、誤解されやすく、むずかしいモノであると思う。 頭の中の「思考」も、言葉をつかって考えるから、言葉は重要なツールである。

あまり気を使いすぎると、何も話せなくなりそうだが、人と話す状況になったとき、モノゴトにたいする考え方に話が向かったときに「良い、悪い、ちがう、なぜ?、」そういう言葉は、吐かないようにしようと思う。それは、自分の信念とちがう他人に、自分の考えを押し付けることになるからである。 考え方のちがいを議論することは、相手に自分の考えを強要することであって、それで、相手を知る、ということにつながりそうな気がするが、実は、そんなことにはならないで、考え方のちがいの溝が、ただ深まるだけになることがほとんどだからだ。

 

評論家のような、そんな話し方をする人がいる。

さも、わかったような、自分が正しいのだ、、という、評論家的なことを言う人、さらに、本物の評論家たち。 なぜ、評論家?などという職業があるのだろうか? 彼らの専門的な意見が重要だからだろうか? 人のやってることに、批評すること、その意味は?

こういった話をすると、 めんどくさがれるか、何考えてるの?と、言われることがほとんどだが、 つまり、おおざっぱに言ってしまうと、「おしゃべりじゃない人」「落ち着いている人」というのは、信念をもち、人に対して強要するようなことはしない人ではないだろうか? と、いつも思う。ハズレもあるが、そういう人に強く魅かれる。

自分もそういう人になろうと思う。