自分は、ほんとに「心配性」だと思う。
(こんなに心配性だったかなぁ・・?)
と、自分でビックリするくらい、年をとるにつれて、「想像力」がおうせいになって、とくに、悪いことへの想像が大きくなってきている。
これは、まったく無意味で不必要な感覚である。
と、頭で思う。
この世で、一番不必要で、
一番、克服しないといけないこと、
それは、
恐怖心(不安)
である、と、
とある文献で、よく見かける。
人間から「心配事」がなくなったら、どんなに幸せだろうか?
「心配」や、「不安」が、すべての不幸を呼んでしまう。
「あした、どうしよう!」とか、
「あーやばい!」
みたいな、心配が、体も精神も、むしばむことは、頭で十分わかっているのだが、その思考を聞こえなくするする技がない。
例えば、舞台に立つ事になって、大勢の前で何かをしなければならないとき、「失敗するんじゃないだろうか?」「恥をかくんじゃないか?」「失敗したらやばい」みたいな、そんな考えがおそってくることなど、身近な不安現象だが、人生にはもっとひどい状況があるだろうが、すべては、思考による「不安からくる恐怖心」が起こす、バーチャルなウソである、と、言える。
いま、なによりも一番、欲しいものは、
不安からくる恐怖心をなくしたい。
ということ。
まったく無くなることは、何だかよく無い気がするので、ほんの少しだけ、不安や恐怖を感じられるように、なりたい。
何かのモノゴトがうまく行かないときに、こういった不安が増幅することは、きっと、病んだ事あある人ならわかると思う。
しかし、ほんとうは、不安に思っていたことが大事件に発展した・・・ということは、ほぼ、ないのである。よくないことが起こる場合は、それが予測できないとき。予測できてる場合は、起こらない。
自分の場合であるが、オカルト漫画やホラー映画のえいきょうで、例えば、顔におできができて、なかなか治らなかった・・・となると、次の朝には異常な腫れ物となっていた(カフカの小説のえいきょう)・・・とか、「♬ピンポーン」とインターフォンが鳴って、見知らぬババアが映ったとき、何かの悪い前兆ではないだろうか(「猿の手」のえいきょう)・・・とか、冷静に考えると、実にありえないことである。
映画の脚本だったらボツになるほど、つまらない発想である。
こういったクダラナイ不安を無くすため、ちまたでは、インチキくさいセミナーがあるようだが、手っ取り早く、「誰かに頼っちゃおう」というのでは治らない。
その理由は↓
心の声(セミナーでしっかり治そう=せっかくお金だしてセミナーに通うんだから)
という、損得勘定が必ず働くのです。
そうすると、
無意識の心の声(通うんだから治らないとおかしい)→(自分が治らないと意味ない)→(がんばったのだからきっと治ったはず)
つまり、
無意識に、自己催眠をかけているのと同じことで、「治らないと意味ない」「治ってない自分は変である」、という発想が無意識に働いて、治ってないのに、頭が治った事にしてしまう、のです。だからセミナーなどというものはやめたほうがよい。
話はそれましたが、
不安からくる恐怖心をなくしたい。
その、確実な方法は、いまだ見つからず。
しかし、ひとつだけ(知っている)なくなる方法がある。
それは、
他人の体温を感じること。
これは、誰でも良いわけではなく、簡単に言うとマッサージという行為が本来は「人の手による癒し」であるように、つまり、「手をにぎってもらう」「背中をさすってもらう」などのような、何か特別なことをするのではなく、ただ人の体温をもらう事、そういう行為が、不安や恐怖心を消す方法ではないか?と、思う。
人には好き嫌いというものがあるが、そういうことではなく、突き詰めると「人間」というものは、誰かのエネルギーや共鳴するもの、を、もらったり、あげたり、ということで、古代から修復や進化をしてきたのではないだろうか?と、思うからである。
そういうことが無くなってしまた現代だから、精神の病がおおくなったのではないか?などと、思う。
でも、自分で言うのもなんだが、この仮説は言い得ているのではなか?と、思う。
薬で治すのではなく、原始的、かつ、神秘的なイメージはあるが「人間」には、見えないエネルギーは確実に存在するのだから、それが治すこともあり、攻撃することもあり、一番簡単で、お金がかからず、セミナーのようなものでもなく、ただ人の温度をもらうだけ。
静かで落ち着く場所で、気を使わないで体温をもらえる人に触ってもらう、触れてもらう。(現代ではこういう状況をセットするのは、とてもむずかしいので、なかなか病が治らないのだと思う)