ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

世界遺産ごっこ

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最近、日本人のミーハーたちが、どんどん増えてる気がする。こんなにも日本人ってのは節操がない?のだと思った。

ニュースでは、御朱印(神社でもらう印)をめぐって、書くのがおそいとか、文句をいう奴らがいるという。その結果、神社では書くのをやめた所もあると言う。

さらに、仁徳天皇陵世界遺産になると、待ってましたと訪れようとする奴ら。古墳の認定には、賛否があるようだ。もちろん、じぶんは反対。金儲けの材料にしかならないからだし、もう、”世界遺産ごっこ”はやめようよ。

くだらないミーハーが、カメラもって集まるだけ。歴史も、いわれも、何も関係なく、ただ世界遺産だと言うだけで来る奴ら。

どこだったか忘れたが紫のキレイな花が一面に咲く場所、そこが宣伝されると、すかさずいく奴ら。

ミシェランに登録されると、すかさずいく奴ら。

そういう人種が、そういう所を目指して行くと、当然、混む。やたら人口密度が多くなってカメラとスマートフォン片手にひたすら行列を作る。そして、ゴミを捨てる。

仁徳天皇陵は、古墳である。つまり墓である、古墳ってのは、ただの天皇の墓、ではない。墓であるとともに、古代の呪詛である。つまり、そういう所を観光名所でもうけようなどと言う策を作ると、とうぜん、ルールを守らない奴らが出てくる。そうすると、古墳の中に入ろうとしたり、汚したり、何かを持ち出そうとするのが予測できる。

仁徳天皇陵はお堀で囲まれているので、なかなか中には入れないが、あの近くには古墳がたくさんあって、すぐ横に人家があったり簡単に侵入できる。

つまり、古墳を観光名所にしようと言う自治体の考えが、ルールを守らない無知な奴らに恐ろしい結果をまねくことが考えられる。でも、勝手したらいいと思う。古墳を観光に出かけよう!なんて恐ろしいことは、自分はするわけが無いし、ありえないからだ。

お寺参り、神社参り、を「観光」にすると言うのは、どうも良くわからない。すべて、金儲けの手段になってしまった現代、しょうがないと言えばしょうがないし、観光的な場所である神社も、確かにあるからだ。

今ある寺を考えてみると、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)ということを、思い出す。

仏の姿を造った像は、全国にたくさんある。皆、手を合わせて、それを拝む。

はるか古代から、何か具体的な、物質の対象物が無いと、人は崇拝できないため偶像崇拝し、大きな過ちを犯した歴史がある。

それがあたりまえになって、やたらデカい大仏や、崖に彫った仏像(磨崖仏)など、神や仏を想像してそれを拝む。 今の神社だって、寺だって、必ずご神体があって、「何々の神・・・」とか、「○○菩薩・・」とかを拝めてるだろうが、それらはすべて偶像崇拝だと思う。偶像、つまり、偽物の像である。人間が想像して造った像である。しかし、たとえ創造主というものの姿を見た人間がいて、似せて像をつくたとしても、なぜそれを拝むのか?が、わからない。

人間の単純さが伺える。物質が無いと何かを想像することができない人がたくさんいるから、とりあえず拝める何か物体を作って、それに思いをはく。

何だか話がそれたようだが、神社、仏閣で御朱印をもらうのを趣味として回る奴らも、神社に願をかける奴らも、寺の仏像を見て感動する奴らも、同じじゃないかと思う。それは、何か「ありがたいもの」に群がる、ということ。その「ありがたい物体」は、古い質感を用いて、いかにも近よりがたい空間にある物体として演出されているだけなのだ。