東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

学校のダンスの授業は必要ない

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小学校でダンスの授業が導入されて久しい。

いっときのダンスブームの火付けになった芸能界、エグザイルに安室に、あれらが低学年〜の人気で学校の授業にも入れようと思ったのだろう。

しかし、ダンスは、やめたほうがいい。あれは、デブや運動神経の無い子には苦痛以外のなにものでもない。ダンスは個人の趣味以上のものではない。ダンスってのはエンターテイメント性がありすぎて、みんなに見てもらってなんぼのものだから、見られて恥ずかしいカッコになる場合、トラウマとなって残るはずだ。何でダンスなんかやるのだろう?今の小学生は悲劇だ。今の時代にうまれなくて良かった。もし自分の時代にダンス授業があったら、小学生だが思いっきり反発する運動を立ち上げるだろうな。それほど体制には屈しない小学生。

学校で教えるダンスは、個人が自由に創造性を育むように授業をするのではなく、まるで北朝鮮の軍隊やマスゲームのように、一糸乱れぬ動きを要求したり、終始笑顔!が良いのだ、と言う教え。これは何か間違ってる。同じ動きが決まったときの気持ち良さを求めて練習するのだろう。しかし、それが何になると言うのだろうか?

バレエダンスには郡部というものがあって、花形であるエトワールの後ろで、一糸乱れぬ動きで踊る人たちのことであるが、バレエ界においてはその郡部は主役以上に相当なテクニックを要求される。それは、そういう決まりを昔のダンス界の人たちが作っただけで、踊る本人は修行のひとつで動きが揃ったからといってそれだけで満足しているわけではない。一糸乱れぬ動きが非常に不自然であるがために、人はその機械的な行動に感動するが、同時に不自然だな、とも思う。 体操床運動も、シンクロナイズドスイミングも、一糸乱れぬことが高評価になる。冷静に考えて、何かおかしくないか? 身体の動きを同じにすることの「おもしろさ」はしだいに「不自然さ」となり、そして「ぶきみさ」になって、終には「不快感」になる。一糸乱れぬ北朝鮮の軍隊の行進を気持よく観れないのと同じに。

つまり、人間は団体で同じことをすることが出来ないにもかかわらず、人と同じ行動をしたい、といった、くっだらないことをやっている。出来ないから、やりたい、とも言える。

人はみな違うから良いのだ。という教えが世の中には薄い。なので、親や教師は皆と同じになりなさい!と説教する。同じように出来ない「はみだし者」は、不良か社会不適合者、といわれる。これもひとつの人間の未開発の部分。 あと何十年、何百年たっても、たぶん進化はしないと思う。進化は技術だけで心の部分は太古の昔と何も変わっちゃい無いのだと思う。