おとこひとり

62才おとこがひとり語るモノコトのいろいろ

「良心」

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びっくりじゃないですか?! 大雪です!

4月も目のまえなのにね。すごいことです。14時ごろにはやんだけれど、積もるタイプの雪で階段をチリとり使ってか雪かきしました。

昼過ぎにNHKのニュース見てたら、え!?じぶんちの前じゃん?ここ?って、報道されてたのでびっくりした。派遣社員が撮ったんだろうね。〜こういう風に映るんだ〜って思った。実際に目で見るつまらない景色とちがってテレビだとドラマチックな雰囲気になるから不思議。

こんかいのコロナウィルスのまんえんは、世界史にぜったい残る大事件であると思う。その時代に生きているわけを、すこしは自覚したい。

ボーっと生きてんじゃねーよ!って番組あるけど(好きじゃない)、まさにボーっとただ生きていていい時代じゃない、と思う。

不安になってる人も、そうじゃないノーテンキな人も、いろんな感覚の人がいるってもの、どう説明していいかわからないことのひとつ。みんな同じ感覚じゃない、つまり皆、すべて個性がちがうのが人間なんだ!という、説得力の無い理論しか言えないが、同じ国、地域、会社、家、家族、部屋・・・と、どんなに小さい場所でも、人は多勢によって変わって行ってしまう生き物だと感じる。

とくに国によって、法律がちがうためにすべての考え方がちがうし、ある国では死刑である国ではたいした罪じゃなく、じゃ、なぜ国や地域によって裁きがちがうのだろうか?ちがって良いものなのだろうか?という疑問はないですか?

これはなんとも、おかしなことである。

でも、”あること”を知ると、ちがってしまったのはあたりまえなのだと、わかるようになった。

 

 良 心 

良心とは、どういうものなのか?
心はどう判断しているのか?
基準は誰もがちがうのか?
生まれもって人に備わって生まれるのか?

YouTube である動画をみていて、疑問だったことが、納得できる説明をしている場面があった。それは、良心と律法主義について。

頭の良い人は「律法主義」なんて昔から知ってるし今の世界ではあたりまえ・・・などというのだろう。恥ずかしいが自分にとって初めての言葉であった。
学校ではこう教える。国は法律で人を守り、裁き、世間の平和はその法律でなされている・・・

つまり現代日本法治国家である。と。

 

横断歩道は信号は赤では渡ってはいけない・・・。
拾ったお金は交番に届けなくてはいけない・・・。
飲食をしたら対価を払わなければいけない・・・。
人を殴ったら刑罰を受けなければいけない・・・。
人を殺したら刑罰を受けなければいけない・・・。
 

これらは程度こそちがうが法律で決められたことで、人が犯してはいけない罪である。
罪の重さを例えばで順に並べてみたが、横断歩道を赤信号で渡った人と、人を殺した人、は、同じ罪の重さではない・・・というのは律法の決めた罪の重さの決まりであるが、程度は違うが、統制者が法律で決めたわけだ。現代はこの「律法主義(主義、というのがくせものだが)」の世界なのだ。

法律によって規則がある、もちろん、知っていた・・というより、そういうモノが存在する国に生きている、と言ったほうが正しい。

では、この行為はどうだろうか?

改造したバイクで爆音をたてて通りを走る行為
信号無視や歩道を走る自転車
道ばたにツバやタンを吐き捨てる行為
二股三股をかける恋愛行為
生きざまにウソをついて同情をもらう行為

・・・身近な行為だがこのようなものはほかにもたくさん見つかるだろう。
これらの行為は法律でキビシく決まってもいないし守ってる人もあまりいないただの迷惑行為のジャンルにはいるような行為である(と人は言う)。
法律で罪になる行為と、迷惑行為の境界線は、現代では「罰せられるか罰せられないか?」だけであり、人は罰せられるからやらない、罰せられない(またはそれほど罪は無い)から大丈夫、という意識で、すべてを決めている。

現代、ゲームなどで人を殺したり戦争で殺りくするようなゲームがあるが、ゲームで人を殺すのは犯罪ではない。しかし、彼らは実際に殺りくしなくても、心の中で(バーチャルで)殺りくを楽しんだのである。

実際に行うことと、頭で思うこと、はちがうのだろうか?
これらのちがいは「律法主義」で、犯罪か犯罪じゃないか?だけである。
とても不可解なことは、人の罪を決める基準(裁判など)が今までの犯罪例や理論であって、「良心」ではない、ということだ。 

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善良ブッてるわけではない。迷惑行為を犯罪にしろ、と言っているのではなくなぜ「良心」に従うことが優先じゃないのだろう?という疑問。一部の支配者が生きやすいように作った律法がバイブルになってしまった意味を考えなくていいのか?また、その世界に生まれて生きた意味は?ということを考える時期なのじゃないだろうか?

「良心」というのは律法を決める彼らにとってはじゃまでしかない。なぜなら、「良心」に従って決めごとをすると(そんなことはありえないが)自分のちょっとした「罪」も法律で罰しないといけなくなるからだ。

「良心」は人によってちがうから決められないということか。そもそも、おかしい。
「良心」に基準、などというものは無いと思うし、あったら「律法」と同じ扱いになってしまう、と思う。

現代は「良心」が少ない、または無いに等しい人が多いから、「律法」で決めないと統制が効かなくなるのだろうか?

その結果、「律法」が人の善悪の判断の先になって、心で人を殺しても罪にはならないしゲームで大勢殺したって大丈夫!という判断になってしまったのじゃないだろうか?

これは宗教的なことを言っているのではなく現実に生活していて不思議でならない。

刑務所にはいるか?犯罪になるかならないか?ではなく、なぜ律法で決めたことだけを「罪」ときめているのだろうか?ということ。

「罪」とは律法で決め刑務所にいくとか罰の程度を言っているのではなく「罪」は人の行為には関係なく、それ自体単体で大昔から存在するモノのことを言うのである。

こう言う意味では「良心」と同じく、存在するもの、である。

いま、世の中をみるに、わかっているのは、いつごろからか律法を作らなければならないほど人は「良心」で判断しなくなったのだろうか、ということ。

そして「良心」は生ぬるい言葉として受け止められ、現在では誰も口にもしなくなったということ。

 

・・・次回へ続きます。