ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

「食い物」というものから「見世物」にしてしまうこと

f:id:bearpond:20200622012059j:plainゴヤ:我が子を食らうサトゥルヌス


中庸(ちゅうよう)を保つことはすごくむずかしい。

ブッダが説いたこの中庸は、一体どこの地点でやめたらいいのか?のような、気持ちの判断が必要になってくるから、その都度状況をよく考えて行動や行為を自分でストップすることが必要だ。

「過ぎたるは及ばさるが如し」と同じように、現代人はハッキリと物事を決めないと消化不良になり、いつも白黒ハッキリさせないと気分が落ち着かない状態になっている。これは良くない。

「マクロビオティック」という、食べ物の陰陽を考えた食事法、簡単に言ったら野菜中心の食事法、肉を食わない食事法だ。

こういう人たちの最上位をビーガン、という。ベジタリアンの最上位だね。

健康のため、病気の進行を遅らすため、精神的なもののため、と、いろいろな理由で人は行ってるが、結果、肌がかさかさになったとか老け始めた、とか、そういうマイナス意見もある。動物性タンパク質の不足は、科学的に考えたらそういうマイナス面はあり得るだろう。

精神的なことで言ったら、同じ動物の肉を人間が食うのはよろしくない、陰陽道に反している・・のような、精神論的な意見もあるだろう。

何が良くて、何が悪いのか?は、ハッキリ言って誰にもわからないし、絶対にそうだ、ということも言えない。

そこで、最初に書いた「中庸」ということを思い出す。

絶対に動物性タンパク質を食わない、というのは「中庸」の考えでいうと極端な発想で逆によくない。

動物性タンパク質の問題じゃなく陰陽道を問題とするなら、四つ足(牛、豚など)、2つ足(鶏など)は食わずに、もしタンパク質を取るなら魚を食えばいい。ということは言えないだろうか。

マクロビオティックに心頭する人も、ビーガンも、問題は個人個人の問題なので、勧めることも批判することもしないしご自由にやっていただくとして、食い物に対しては、もっと大きなテーマがあるのではないか?と思う。

そのテーマは、「動物か植物か?」が問題なのではなく「飽食(ほうしょく)」なのではないか?ということだ。

原始人じゃないし、時代は文明ある人間が生きてる今の世界。しかし格差のあるこの世界では食べることは生きること、という貧困層の人たちが居る。しかしレストランに星が何個も欲しいのでウケ狙いで料理を考える・・と言ったような、料理を生きるためではなく、必要以上に俗物にしているような、なんとも不可解なことが実際に世の中の食文化では行われている。

自分は、凝りに凝ったカリスマシェフの料理や、高級食材を惜しげも無く使った料理や、アートのようなよくわからない料理や、食事をそう言ったステイタスに上げていくことに対して、不快感を感じている。

つまり、「やり過ぎ」である。

毎日当たり前のように、高級店の料理や有名シェフの厨房がテレビで流れ、食レポではオーバーな演出で料理を紹介し、人々の楽しみは「素敵なレストランの有名シェフの料理を見ること!いつか行ってみたいわ!」だと言わんばかりにマスコミは飽食をエスカレートしてゆく。

食事、料理、食材・・これらに優劣と良い悪いは存在する?と思いますか? 腐った食材と新鮮な食材を比べてるわけではありません。そうではなく、食材がキチンと料理されてそれなりに美味しく味がついて、作った人の個性と気持ちが入っていれば、それ以上でもそれ以下でなく、それでていい。 いや、料理はその時点で止めなくてはいけない。

それ以上にこねくり回して「食い物」というものから「見世物」にしてしまうことは「中庸」から大きく外れるし、食材に対して、罪があるように思える。

こういう風に考えているので、ブログやツイッターなどで料理をアップして自慢したりする輩に対しては不快に感じる。つまり、食べ物で楽しんではいけない。というこだ。

これは勘違いしないで欲しいのは、親しい人と食事を楽しむな!と言ってるのではなく、食べ物自体をターゲットにしてはいけない、ということだ。

食べ物は、質素で美味しそうに作った人の個性と気持ちが入っていれば、それ以上でもそれ以下でもなく中庸で終わらされるべきである。

マクロビオティックやビーガンに対しては病気の対処で実行してる人もいるし、精神的な問題もあるので大いに自由だ。 ただ、動物か植物か?と言った問題がいちばんの問題のように言われているが、自分が問題にすることは、やり過ぎなマスコミの食べ物の情報と人々の食への必要以上の「飽食」と、「食べること」に対して、あまりに自由すぎる(贅沢すぎで無駄の多い料理)ことである。