今日は総理候補3人の所信表明演説があった。一人20分で演説らしい演説を久しぶりに聞いた。会場の演出はアメリカに比べたら舞台演出やデザインがかなりお粗末なものである。お役所的でお金をかけない、あり物を寄せ集めたようなテーブルだったりで作った会場で、でもそれが日本で、逆に質素なところが良いところではないか?と、最近、思うようになった。
会場や演出に凝るということは、逆に「自信のなさの表れ」であると気が付いたのだ。 過度な豪華さやドラマ仕立ての演出は、本当は本人に中身がないからで、それを暴露してるようなものだと気付いたのだ。
某大国の2つの国、今、けんけんがくがくな2つの国の政治的催しの映像を観るたびに、かたやアジアの大国は、ど広い宮殿のような会場に大勢並んだ部下の前を大げさな登場をし、いかにもすごいだろーという出で立ちである。もう一つの大国は、アカデミー賞のような演出とカメラワークで大統領夫人が現れる。そしてキャッチフレーズのような言葉に、そのたびに支持者が歓声を上がる。
これを観て「すごい!さすが違う!立派だ!」と賛辞を贈る人がいたら、あまりにも相手の思う壺じゃないか?
各国の政治の会見などを見比べると日本との違いがよくわかる。民族的な性格が違うから、ということではない。「この人はすごいんだ、という演出」が、逆効果になっているのだと、民衆は気がつかないといけない。
この会場の質素さとちぐはぐさが、とても日本らしくて好感が持てる。突っ込ませてもらえば、白いミニテーブルと舞台後ろのカーテンはIKEAのような北欧テイストだしチェアーはロココ調のホテルの椅子みたいだし舞台後ろには工事現場風の扇風機、舞台の床はツヤのないベニヤみたいな色だし・・・いや、いいんです、これで。変にカッコつけるとあざとくなるのです。
例えば、ファションにも同じことが言える。
ボディーを鍛錬してる人は、細見えする服だったりポリウレタンが10%以上入ってる伸びる服だったり、またはレースやプリントなどでボディラインを目立たなくしたり、そういう服を選ばなくても、ジーンズにTシャツだけでも、そんなにひどい見た目にはなない。中身を鍛えてるというのもあるし、自分に自信があるので外側は適当でOKとなる。
インテリアも、ファッションも、家も、「見栄っ張り」で自分をもっとすごい人だと思わせるために、諸外国の政治と同じで、過度な演出が必要になってくる。
今回の首相候補の3人様、おっさん3人でなんとも地味なビジュアルであるが、これから「中身」をじっくりとよく見ようではないか。