東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

死のレベル

竹内結子の死のニュースを読んだ60代ぐらいの主婦の感想でブログに「死んだら”無”で何もなくって生まれ変わりも信じてなくて悪人も善人も関係なくなって死んだらみんな仏のような同じ姿になってるんだろうな・・・」などと書いてあった。

そういう考えの人もいるし、死んでも死後の世界がある。。という人もいる。いろんな考えはみんな自由ですべては死んでからじゃないとわからないことだ。

 

人間が死んだら全てが「無」に帰す・・ならば、なんで先祖の墓参りに行く必要があるのでしょうか?墓参りや仏壇を置くのはただの各家庭の習慣でしょうか? 全てが死んだら何もなくなってしまうのなら仏壇や墓を持つ必要はないし、親しい人を思い出す糸口としてお墓や仏壇があるなら、何もそんなオーバーなものは必要なく写真だけでもいいし、悪いことを考えたら全てが「無」になるのなら人の迷惑も犯罪も好き勝手やって面白おかしく生きたらいいわけだ。それをしないのは臆病だからじゃないと思うし「正しい生き方」は死後に左右すると、きっとそう思っているからだと思う。

何か目に見えないものを信じているから、仏壇も墓も持っているということ。それが形のない「信仰」だとしても。

日本人が合理主義の欧米人と違う点は「魂は永遠である」という精神性を無意識に持っている点である。東洋医学と西洋医学の違いもそれに通づる。

自殺する人の理由は人それぞれだが、今の苦しみから離れられる、そういう理由だとして、つまり死んだら今の状態から離れられると思っているわけだ。物理的な状態からは離れられるだろう、体を動かす機能を停止させるわけだから。そして自殺者は死んだら全てが「無」になってリセットされて楽になる、と考えているから自殺するのだ。しかし、はたしてそうだろうか?

なぜなら、一番、説得力のある理由としては、「思考」や「意識」(または魂)の場所は、この科学の時代に人の体のどこにも見つかっていないということである。ある人は「脳」だというかもしれない、ある人は「心臓」というかもしれない、しかし、どこにもそれを証明する説はない。

「脳」の内部の神経細胞、確かにそこには思考や記憶や痛みを感じる場所があるだろう、しかし、それは生後に発達したことで、生まれ持ったものではない。

一番危険なのは「体の死」が「全ての死」である、という考えだ。だから自殺を思いつくのだ。

心機能を停止することが「全ての死」ではない理由を、感覚ではなく、言葉で説明するのは、宇宙人が存在するか?ピラミッドはどうやって作られたか?を説明するぐらい難しいレベルだ。