養老孟司 解剖医
だいぶ前に、著書「バカの壁」がヒット・・・ぐらいしか知識はなかったが、単にそのタイトルで好きになれなかったが、たまたまYouTube で彼の話を聞いてみたら多くの人が興味を持つ理由がわかった。人体を解剖するだけあって、仏教思想を入れながら、独断的にバッサリと言い切るクールな面や、神経質なぐらい細部に目が向いた疑問や考えをする感性が気にいった。
その話の中でたいへん面白い話があった。
大戦でまさか日本が負ける、とは思っていなかった。当時日本は帝国軍から日本は必ず勝利すると洗脳のように国民に言い聞かせ続けていた。最後の最後まで騙したのだ。この時代に生きた現代の老人たちは、日本に騙された経験があるのに、なぜ、いまオレオレ詐欺にだまされるのか?わからない。と。
東京(生まれ育ち)の人は病気である。東京人は病院で生まれ病院で死ぬ。
つまり今は、仮退院中 なのである。
水の入ったコップにインクを一滴たらすとどうなりますか?
という質問を若い学生にし、その理由を答えなさいと言うと、
「そういうものだと思ってました・・・」
と言うのが答えだった。
学習は理由なんて関係ない、答えをただ受け継いでいくだけ、それがいまの「学習」だと。(学習とは単にこういうもので、真理を考えていくようなものではない、ということ)
コンピューターが出始めた、東大病院にいた頃、患者から不満がきた。
「先生、なんで先生は私たちの顔を見ないんですか?」
コンピューターが出始めた頃から、患者という人間がどんな顔でも背が高かろうが低かろうが関係なく、すべてデータ上で処理、処方を考えていくという考え方になった。その当時から医者はパソコン上の患者のデータを見て判断するだけになる。しかし、この方法が現代ではあまり進化していない理由は、これが進化すると医者が必要なくなる可能性があり、経営上、止めていると言うことだった(そこまで言っていないが)。
上司にしょっちゅう怒られている社員、子供を叱る親、しかし社員も子供も、「なんで怒られているのか?」は覚えていない。覚えているのは「叱られた」と言うことだけ。怒られた理由を覚えていないため何度も何度も同じことをくりかえす。これは患者の顔色も見ずパソコンの画面だけを見ている医者たちと同じで、医者、社員、子供は相手のデータだけが頭に残り、データ以外は他はすべてノイズ(必要ないもの)だ、と判断する。
コンピューターは雑音と判断した余計なものは排除し必要なものだけを残す。余計なものとは、ノイズ。ノイズとは雑音、重要なデータ以外に不必要なもの。
医者も少しは患者の顔を見るだろう。でも見るのと診察とは違う。
SNSを生活の全てを占めている現在の多くの人たちは、このノイズにあたる感覚的な部分は知ることはできない。データがリアルだと、全てだと思っているからだ。
そうなると、どうなるか?と言うと五感が退化する。データ上にないこと=ノイズが大事な部分であるのにもかかわらず、感覚的なことが理解できなくなる、おそろしいのは善悪の判断ができなくなる。すべてデータにあることだけで生きていくことになる。
感覚を脳が取り込み、筋肉に動きを与えそれで人が動いて生きることになる。というのが養老氏の考えである。もちろんそうなのだろう。脳が司令を出さなかたら人は動かないのだから。しかし、感覚はデータではない。データは試行作業を必要としないファイルであるから、感覚をどんどんと隅に追いやっていくだろう。なぜなら、データを受け取る作業と違って感覚を認識することは修行にも似た鍛錬が必要だからだ。この感覚を現代のわけのわからない思考をする多くの人はノイズとして排除してしまっている。