東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

オリンピックの開会式の評価

オリンピックの開会式というのは、この何十年かはコリに凝った演出を競うのが普通になった。これでもか!と豪華な演出をする国が多い今日、なぜそのように豪華に演出をするのか? というと、それは、開催国の経済力を見せつける、という思惑があるからである。北京オリンピックが良い例で、経済力がある国なんだよ、さらに一矢乱れぬ団結力があって怖い国だよと、全世界にアピールできる絶好のチャンスだった。確かに見応えはあったが無理しすぎな点と競技の祭典ということにあまりにかけ離れた国のアピールしすぎに辟易した。しかし、逆を言えば、これだけのことができると見せなければならない発展途上である、という裏返しになり、見栄っ張りな国だな、という余裕のなさがバレてしまう。

ずいぶん前にGDPが1位でなくなった日本だが、貧富の差はあるにしろ国民は他の国に比べたら平均的に裕福である。東京オリンピックの開会式の演出には事前に問題が多発したが、今の日本では派手で豪華で経済力を見せつけるような演出をしなくてもいいわけで、今回の東京オリンピックの質素さ、だけは適切だった、と思う。

しかし、その表現自体には感性の低さを感じた。これはすべて演出家の人選ミスが原因である。今回は問題があってクビになったが、そもそも最初にコマーシャルのディレクターを起用した時点でスケールの狭さで終わっていたのだ。彼も、今回クビになったお笑い出身の者も皆テレビのディレクター上がりで、ただのバラエティー畑で、彼らが日々考えていることでは深い感性のある作品は絶対に生み出せない。野村萬斎を辞めさせたことが残念である。

江戸時代の大工仕事のパフォーマンスや普段着のような人がウロウロするようなストリートダンスや、そういった「説明的な表現」はテレビのバラエディー番組の延長でしかなかった。「説明的」というのは、イメージに訴える表現ではない、感覚に訴える表現ではない、ただの面白おかしい騒がしい時間、、なのだ。

やはり人の心理に乏しく、芸術性の無い、いわゆるテレビマンたちの稚拙な演出では、あぁ、どこかで観たね、これ、とか、ただ人が動き回ってるだけじゃない?これ?とか、どこにも新しい感覚が無い、お茶の間の演出家なのである。

こういった演出家は必ずバク転したりするダンスに頼る。なぜ、いつもワイワイ騒ぐことに頼るのだろうか?それはテレビのバラエティーしかできない人たちだからだ。非常に残念であった。

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最初にデジタル技術、プロジェクションマッピングを使ったが、それは少なかったが、最近の主流はプロジェクションマッピングであるが、それを一切使用しない選択はなかったのか?映像効果が目立ちすぎると、安っぽくなりコロナに対する考えや人間というものに対してのコンセプトがズレまくってしまう。勇気をもってアナログ表現に徹したほうが新鮮であったはずだ。アナログである森山未來の表現こそ今新鮮できっと世界は「やられた!」と思ったはずだ。

短かったが、森山未來の、今の世の不安、病、死、などを感じさせる精神世界の「表現」であって、なぜ、この部分がこれほど短いのか?たぶん、他のバラエティー部分に時間を取られてしまったのだろう。考えるに、この森山未來の部分は、先ほどクビになった演出家や最初のコマーシャルディレクターが発案したのではなく、森山未來自身だったのではないか?と思う。彼らにはこういった表現の価値はわからない。しかし削除することはできず短くして残った、ということだろう。

江戸時代の大工の踊りなど紅白歌合戦の合間の踊りのようでとても恥ずかしく、森山未來の表現が同じ時間軸に存在すること自体、違和感があり、同じ者が考えたのでは無いと確信する。

森山未來のステージは印象的でありこれを主体にして最初に出すべきだった。いや、他のよくわからないウロウロするステージはいらない。東京オリンピックの開会式は森山未來だけで十分。

これが説明的では無い「表現」というものである。 日本はコロナ感染の悲劇、閉鎖感、差別、死、病、孤独・・・こういったことをコンセプトにして大きく全面に打ち出せば成功したと言えただろう。それを表現した彼は日本独自のもので唯一無二であったし、金と技術さえあれば誰でもできる豪華絢爛というものが今の時代にいかに不相応であるか、を言えただろう。