ろくろく人生レポート

東京おとこひとり 改め:66才からの人生探求レポート

日本民族の持っている芸術性は西洋のものとはかなり異質で、西洋と同じようなことをしたらどんなに優れた人でも西洋には見劣りしてしまう。今回の式典でそれがあらためて実感した人は多いだろう。これは優劣の話ではなく、民族というものの持っている向き不向きの話である。

オリンピック閉会式 観ましたか?

思ったとおり、恥ずかしくみっともないものでした。

どこがどうとか細かく指摘すると気が滅入るのでしないが、これだけのイベントにはできうる限りの高度な芸術性を見せなければならなかった、そしてそれが演出の醍醐味でもあったのだが。

これに関わった人たちすべてが、技術的にも、感性的にも、芸術的にも、すべてにおいて未熟で幼稚で、人に見せるような代物ではない、そんなものを世界中の人たちに見せてしまったのだ。

もし、コロナなど終息して平時でこのオリピックの開会式、閉会式がこの演出で行われていたら、もっと、もっと情けなくひどい批判をしただろう。コロナウィルスが蔓延し演出がスムーズにいかなかった中での式典であるから、それを忖度(そんたく)して、有事の中での式典だからこれしかでいないんだろう・・と思った人もいるだろう。でも、それは違う。多少のミスはあったかもしれないが、あの演出のレベルは有事でも平時でも幼稚園の遊戯以下であることにかわりはない。

今回の式典のひどさは演出家のゴタゴタだけが原因ではない。残念だが今の日本人では素晴らしいものはできなかっただろう。それは、イベントというとアメリカの真似をすることでの失敗、そして日本人のオリジナリティーがどこにあるのか?という民族ルーツの勉強不足が原因だ。

原因の一つに、

この日本に飛び抜けた天才的な芸術家不在であること。

その理由には、

日本人という民族の持っている芸術性というのは西洋のダイナミックなものではない、ということ。

日本民族の持っている芸術性は西洋のものとはかなり異質で、西洋と同じようなことをしたらどんなに優れた人でも西洋には見劣りしてしまう。今回の式典でそれがあらためて実感した人は多いだろう。これは優劣の話ではなく、民族というものの持っている向き不向きの話である。

歌が上手いといわれている歌手も国歌が下手だし、ソウルミュージックの歌い方を真似しているだけで、どうにもカッコ悪くしっくりこない。日本人が持っている目に見えない古代の思いから出たものではなく、そう、すべてアメリカの真似をしているだけ、なのだ。

向き不向きは太古の歴史とDNAと複雑に入り組んだ性質がその民族に個性を作る。

韓国や朝鮮大陸の民族は誰もが知ってるとおり歌が上手い。日本の芸能界の歌手たちは皆隠しているが在日の方が多いし、現に韓国の歌手は持って生まれた上手さがある。芸能に特化している民族なのである、理由はわからないが、それは評価するに十分である。

フィリピンには歌の上手い人がたくさんいる。

ヨーロッパ、とくにイタリア、フランスには誰もが知るとんでもない芸術家が生まれた。絵画、彫刻、建築などに次元が違う天才が生まれる民族なのだ。

アメリカは言わずもがな、エンターテイメント大国である。音楽、演劇、映画、現代アート、これは民族性としか言いようがない。

すべての国にその民族の持っている特性がある。それらに優劣はつけられない。しかし、もし違う民族が全く同じことをして比べた場合、そこにははっきりとした芸術性の有無が出てくる。

競技でも同じことが言える。身体能力の高い国のDNAを半分でも持つ選手は同じ競技をしていても優秀な成績を出す。それは誰もが普通に認めている。

これらの事実を、昭和初期の高度成長の時代後、すぐに日本は認識しなければいけなかったが、それをせずに道路整備やマンション建設にと、ただ経済発展ばかりやっていたために日本独自の芸術性が迷子になって、すべてがアメリカの真似で浮き足立って地についた芸術が無く今に至っている。

時系列で見ていくと、日本で庶民に親しまれ素晴らしい芸術は唯一「浮世絵」だけだ。

江戸時代の浮世絵師たちの素晴らしいオリジナリティー。これ以後、素晴らしい日本画家たちが出現したが、技術ばかり先立って浮世絵のようなわかりやすいものはない。

浮世絵はどんな西洋の絵画にもない世界がある。西洋の肉感的で遠近感のあるリアルな世界ではなく2次元の世界である。これが日本なのである。2次元の世界は3次元に劣る、のではなく、それぞれの世界感の違い。

今回の式典もこれらの歴史と日本のオリジナリティーとがわかる人が仕切ったら、もっと違った見え方になっただろう。全てはアメリカの真似っこにも届かずに終わった。

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神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)葛飾北斎 1831-33年(天保2-4年)頃

今回のような大きな式典でイベントを披露するのなら、欧米とは全く違ったアプローチをするべきだった。しかし、もはや天才的な芸術家が江戸時代以降190年以上生まれていない日本では、むしろ楽しませるような式典はやめて、もう一度冷静に過去を振り返って日本民族とは何か?の答えを探す必要がある。