ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

不幸か?不幸じゃないか?は、けっして他人が決めることではない

昨晩から降り出した雨が、今日の明るいうちにやんだ!よかった。

気温20度って、全然寒くない。秋冬だと思ってダウン着て出たら、思ったとおり背中に汗が・・・😭 この季節は風邪をひかないように、それだけが大事。

 

朝、羽島なんとかのモーニングショーという番組で、電車内での無差別事件にたいして、番組の分析ででかいボードに書かれていたのは、「孤独」が犯罪を起こす・・と、そういう前提で進められていた。

コメンテーターのよく喋る玉川なんとかが、

玉川氏「1日誰とも喋らなかったとか、友人がいないとか、そういうことが問題なんですよ。そういう孤独は不幸ですよ!」

のようなコメントをしていた。

これ聞いて「なんだこいつ?幸せ勝者気取りで薄っぺらなコメントだな」と思った。

なぜって、1日どころか1ヶ月誰とも話さないです、自分。

友人、飲んべえ時代はいたが今はまったく連絡取らず。

仕事もサイコな上司から逃げる方法を作ったので今はとりあえず安泰。

この玉川氏の言ってることは「他人との交流で人は幸せにになる・・・」と言うことです。でもそれは正しいけれど間違えでもある。交流が生む嫉妬、怒り、などなど、交流によって生まれる不幸の方がだんぜん多い。だから、それを乗り越えてゆく知恵を持つことで、人は問題を起こさず、仲良くなったふりができ、仕事関係も上手に渡れる。

人間は、誰とも喋るのが好きじゃない人もいる。おせっかいで喋るのが好きな人もいる。でも、世間ではその本当の顔は見せないで、上手に生きてゆく(強かに嘘をついて生きる)知恵が必要なのだ。

だから、玉川氏のコメントは間違っている。本当は人との交流が下手、または好きじゃない人は世の中にたくさんいる。だが本当の顔は他人には似せないで生きているのだ。

玉川氏「1日誰とも喋らなかったとか、友人がいないとか、そういうことが問題なんですよ。そういう孤独は不幸ですよ!」

本当の顔で生きる人を不幸扱いするのは無礼ではないか?!

今、どこの番組でも犯罪を起こす人は、人とのコミニケーションに問題を起こし相手にされなくなった人だったり、派遣切りにあった人だったりと、なぜか、そういうのを弱者というくくりにして不幸もの扱いしている。解決には世の中や政治が救わなければだめだー!のようなことをいっている。

どんな状況でも思考でも、それを不幸な人だと定義ずけしてる時点で、すでに差別です。なぜって、

不幸か?不幸じゃないか?は、けっして他人が決めることではないから。

毎日誰かと楽しく会話して友人もたくさんいてラインや電話で話す人がいて、会社でもまぁまぁ不満あるけど働けて、、そういう人が幸せな人、と、そう思ってる人がいたら、マスコミや両親や教師や何かに洗脳されているとしか思えません。

あの電車での事件を機に、仕事をなくし友人が誰もいなかったから不幸で死にたくなって事件を起こすのだ、、と、公の電波で、皆さん言い放っています。

理由のきっかけかもしれないが本質とは言えない。その人物は、生まれ落ちた時から、いや、もしかしたら前世からのカルマで、その人物独自の性格や内容が存在するのかもしれない。それ以外のものは成長の段階で環境で作られていったものである。人とうまく接することができないということは、気分の問題ではなく、できないという深い理由があって、でもそのことが不幸ではない。つまり、不幸という終点はない、もっというなら不幸という定義は存在しない、ということ。全ては他人が簡単に決めつけるようなことはできない。

毎日誰とも接触がないのが不幸なら、自分はかなり不幸になります。

死ななければならない人になります。

自分? 普通です。幸せでも不幸でもない。そもそも、幸せ・不幸というものは、愛してる・愛してない、というぐらい曖昧で都合の良い言葉であまり好きではない。

これだけでも世の判断が間違ってると言えるでしょう!