専門的なことを知らないのは恥ずかしいことじゃない、と頭では思うが、気が小さいから? か、ビビリだからなのか? わからないけど、ずーっと頭に残ってることがあって、それはテレビ番組で、食糧事情の問題をテーマにした番組だったと思う。場所は 屠殺場(とさつじょう)、なたは屠畜場(とちくじょう)。
養豚場や牛舎などで食肉用にお仕事で飼われている方々には敬意を称したい。家畜を飼育し加工する職業がなければ多くの人の食料や加工品が不足する。野菜を育てるのとは訳が違って、生き物の場合はたくさんの大変さがあるでしょう。
短い時間の放送だったが、牛を加工する工場(屠畜場)が写った。そこではイスラム教の人間だけしか作業できないという。インドネシアのイスラム教の職人8名がイスラエルのメッカの方角に向かって、ある言葉を言い、屠殺するのだという。みなさんは知ってました?フランスでは個人では出来ない作業になっているとか。
牛は大きい。肋骨を大きくしたような畳3畳もありそうなステンレスの機械が写った。血が流れないように肋骨のように隙間が空いた櫛のような台に牛を乗せるのだろうと想像ができた。
その機械を見た時に、牛はいったいどんな感情で死にゆくのだろうか・・・などと、感傷に浸ってしまった。自分の場合は映像で想像してしまう悪い癖がある。
わかっている。そんなことを言ったら、なにも感謝もせずに日々、牛や豚や鶏を食べているのだから、疑問を言う資格もない。ちょっと前にはステーキにハマっていたし、モスバーガーも食ってたわけで、偉そうなことは言えない。最近食べ始めた「ゼラチン」だって豚由来のものだし。
しかし・・・
肉を食うことの歴史があるが、すごい間違いをおかしている気がしてきた。(いまは生肉は食わないが、出し汁やエキスで入っている場合がある)
まず整理しないといけないのは、家畜の肉を食べないとする理由として、
- 自分のために肉を食べないのか?
- 動物のために肉を食べないのか?
どっちかをまず認識しないといけない。
皮革を着ると言うのも、ニューヨークなどでは今でも毛皮を着ない運動があるくらい、盛んに行われていて、それは動物保護・倫理観という観点からだろう。
感傷的だと思うけど、動物(家畜)が殺される時に「悲しみ」の感情が肉に残る、と聞いたことがある。その感情が残ったものを食べることが、どう言うことか・・
「食べ物は感謝して食べるように。」と、親から教わったと思うが、いくら感謝したところで、動物が人間のために育てられて死にゆくことは変わらない。
長々と書いてしまったが、あの屠畜場を観てから、牛、豚、鶏、を食肉用として育てる映像などを見るのも怖くなった。
どうしたらいいのだろう・・動物に聞けたらいいいんだけど・・・
コロナの中で暗い話になってしまった!すいません。明日は明るい話題に。