ろくろく人生レポート

東京おとこひとり 改め:66才からの人生探求レポート

料理撮影しておもしろい?他なにかないの?

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台風の雨で買物に行く気がしなくて、食い物のストックがほぼ無くなっていたこの2、3日。かなりのダイエットになってしまったが、きょう朝、早々にジョナサンにいってたらふく食うことにした。ほんとうは下町にあるような焼き魚定食とかそいうのがいいんだけど、そう言ういい店がほぼない街なので(なぜないのだろうか?)仕方なく高い金だしてファミレスで食った。

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さいきん、インスタグラムで人気取るために料理屋で飯をくう前に写真撮るヤツがあたりまえになっているらしいが、「きょうこれ食った!」「いい店発見!」な〜んてコメントしたりしてるのだろうか?女性誌の編集にでもなったつもりなのか?それに、その女性誌も料理の撮影テクニックだけに頼って中身がまるで無し。 そのインスタ狙いで店のほうもインスタ映えするメニュー考えたりして。野外の食い物フェアーでやるんだったらいいが、愚かだ。 自分は飯のブログはほぼ見ないが、誰でも生きていりゃ飯は食う。1日に何かあるとしたら飯が一番簡単なイベントだ。だから飯の話題なんて誰も見たいともおもわないしどこで何食おうが勝手にどうぞ、と言いたい。飯の女性誌、これらも上っ面の見せ方だけに終始したどれもこれも同じで進歩なし。こそう言う手の雑誌だったらやはり「暮しの手帖」しかない。この本の料理写真は今時のカッコつけのカメラマンの写真と違い簡素で飾りのない涼やかさを感じる写真だ。「どう、良い雰囲気でしょ?!」って言う女性誌のあのフランスのファッション雑誌 [ ELLE(エル) ] をマネしまくった料理を真上から撮る写真はもううんざり。 料理ってちょっと写真がうまい人ならきれいに写っちゃう。奥をぼかしたりしてネ。でもそれだけ。 人の食った飯の自慢写真みてもおもしろいこと何もない。雑誌も同様。 料理が美しい写真のモチーフになり始めて久しい。 でもこれには違和感を感じる。料理は撮影してみるものではない。見た目を重視しすぎてやりすぎると、料理のもつ意味の領域を超えてしまい不快になるのだ。これは料理だけではなく、あるモノのもっている個性と言うか意味と言うかそう言うものに違う付加が付きすぎると、本来の目的が失われ不安なものへと変化する。 「いいどころでやめる」ことが大事だ。いいところ、とは「エスカレートさせない理性」である。その理性がなくなっているのが今のスマートフォンのやりすぎの技術であると思っている。これもすべて金儲けのための進歩だろうが、電話とメール機能だけで世の中が幸せであったはずなのに、もう戻れない崩壊へ一歩であるといいたい。 話しがむずかしくなってしまったが、しかし、こんな毒舌野郎が若い頃は雑誌 non.noでお料理のページの小道具の制作を長いこと担当してたのだから、その反動かも知れない。