ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

石の刻印 人は、ひとりの人生。自分を生きていく。

動物は、生まれてから人間のように、言葉を習うこともないし、学校へ行って教育を受けることもない、あたりまえ。そんなことは必要なくて生きていく。動物園で生まれた動物も、自然の中で生まれた動物も。
人間のように、善悪を学ぶ必要もないし、しつけを習うこともない。
では、なんで人間だけが、生まれたままで生きられないのだろうか?

それは、最低限の教育をうけないと、社会で生きていけないからだ。

教育を受け社会のなかで生きるように、出産したら、そういうコースが決まっている。
狼に育てられた少年、野生のまま生きる・・というのは小説の中だけの話で、人は、言葉を教えられ、教育をされ、集団のなかで育って歳をとっていく。

これを考えた時に、なにか変だな?と思った。

社会が先なのか、人間が先なのか?

いまは、社会が先にあって、人が生まれていく。もし人が先にあって、社会が後からついてくるようなことなら、それは原始時代をイメージする、本脳で生きるような世界。明日は殺されるかもしれないといったような世界になってしまうのだろうか?

でも、ふと、気がついたのは、人は、個人個人、個としての人生しかない、いま生きているのは自分一人だ、ということ。これは、あたり前のように思うが、実は深い事実がある。

たとえば、ここに大きな四角い石があるとする。そう、寸法は墓石ぐらいの感じ。表面はツルツルで、キレイで、色は別になんでもいい。例えば白にしよう。
人が生まれたとき、その石は人と同時に生まれ、人が歳をとっていくと、いろんな感情がその石に経験したことが刻まれていく。といったシステムがある、と、イメージしてください。
たとえば、会社の上司と言い合いになって怒り狂った日がある。。するとその石に、その記録と感情が刻まれる。また、お年寄りに親切にした日、その石にはまた、大きく刻まれる。まるで、モーゼの十戒の石に文字が刻まれるように、何かを経験するたびに、自分の石に、生きた証の結果として刻印がされる。
人生は、そういった自分だけの、個としての、ひとりだけの石の記録。誰とも共有するものではない。自分だけのもの、自分だけの記録。

地球に災害が起こっても、どこかの国が戦争になっても、住んでる場所に地震がきても、それは自分という存在の外の出来事で、石には記録されない。←ここは、混同しやすい大事な注意点。外の出来事といったのは、自分の意識の中で起こった出来事ではないということ。知り合いの死も自分のなかで起こったことではない。誰かに殴られた場合は?それはその時の感情は自分のもの、でも、殴った事実は自分ではない事実。といった、こういった考え方をすると、モヤのかかった自分という存在の霧が晴れていくような気がします。自分に起こった出来事は自分が関わった事実。その事実は自分のなか(意識の中という意味)で起こったことではない。その時の苦しいとか悲しいとか嬉しいとかの感覚、感情などが石に刻印される。

そしていつか、人の命が尽きる日が来たら、そのとき、石の一生も終わる。
石はそのあと、刻まれた刻印はキレイに磨かれ、少し大きさが小さくなって、またいつか、最良のタイミングでもう一度、その人が生まれ変わる時に石も一緒に生まれる。
しかし、その石は以前、まえに磨かれたので小さくなっている。石は人の人生と一緒に刻まれ、そして人が死んだあとに刻印を磨かれ、それを何度も何度もくりかえして、いつか石としての役目を終えてるとき、石は最後の一粒になって無くなる。そのとき、もう、人が生まれかわることはなくなる。
これが、地球での人の人生。

人は、自分ひとりの人生を生きていく。

自分を生きていく。。。という、この当たりまえの実感を、感じた。

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