何かに熱狂的に夢中になる人、
熱狂的な観衆。
デカい声、奇声、ハイテンション。
フーリガンと言う暴動が好きな奴らもでてくる。
呑み屋でのいさかいも生まれる。
旧時代的で野蛮である。
誰も、
「スポーツは人間形成にならない。」
「さわやかなイメージなど幻想」
「精神たんれんになどにはならない」
「スポーツは賭博と同じ」
・・とは、言わない。
あまりにスポーツは好感度高いため、
誰もが「スポーツは良いものだ」と思っている。
スポーツの批判なんてしてたら、変なヤツだと思われる。
もちろん、こんなことはいっさい言わないで、
人といるときは、すました顔でテレビを観る。
スポーツやってる人、番組が好きな人が、あまりに多いため、
自ずから地雷を踏むことはない。 が・・・
何かを競うこと、に、
何の意味があるのだろうか?
と、
思う。
この考えなど、誰にも理解されない。
誰よりも早く走ったから、それが何になるのだろうか?
「人類最速の男!」ということの、何がすごいのか?
それを言うなら、
参加してない人の中に、もっと早い人がいるかもしれないじゃない。
それより、早く走れたから、何がすごいのか?
文句を言ってるのではなく、
自分にはまったく、わからない心理なのである。
将棋が好きだったら、ただ将棋を指していればいいんじゃないのか?
そこに、順位を付けることは、何なのか?
学校の試験、順位、競争、これの意味は?
あたりまえの今の世界の法則であるが、意味がわからない。
人間の能力の優劣を楽しむ、とか、順位をつける、とか、
そもそも、この人間の能力には、個体差があるのはあたり前だから、
それを競うことに意味があるのか?
練習をして、ひとより強くなったら、それで何になるのか?
自己満足なのか?
優越感をもちたいのか?
すごいと言われたいだけなのか?
ケーブルテレビの設定で、工事の人が最後にCSが映るか確認をして、自分に確認を問うた。何も言わずにその人は、野球チャンネル、スポーツチャンネル、そういうのばっかり映している。
自分が何も反応しないのをみて、
「いつもどんなもの観るのですか?」
というから、
「映画とか?ですかね」
「あーそうなんですか。スポーツ好きそうに見えましたが」
だと。
そうなんです。
見た目と中味は、まったくちがうのです。
それより、皆、スポーツが好きだと思ってる人があまりに多いということが、なんとも寂しい世界である。
話戻して
体を動かすことがキライじゃないのに、
何でスポーツが嫌いなのか?
スポーツが嫌いなわけ
を分析した。
結果、
勝つとか、
負けるとか、
強い弱いかとか、
順位とか
自分は「勝敗」に対しての嫌悪感が、異常に強い、
と言うこと。
勝敗を決めるというランキング主義は、しだいにエスカレートし、勝者は優越感をもち敗者になることに恐怖を感じ、敗者は憎しみに似た感情をもち始める。
勝敗を決めることの先には、悪いことしか想像できない。
勝敗を決めることは、野蛮な行為としか思えない。
(運動と、スポーツはちがう。スポーツは勝敗が常に付く)
勝ったことでよろこぶのは、人間としてもあたりまえの感情・・・?
負けたことで悔しがるのは、人間としてもあたりまえの感情・・・?
これはいったい、何の意味がある感情?
「スポーツは精神たんれんに重要だ」、と言うのは後づけの詭弁。
スポーツマンはさわやかだ!というのも既成概念。
ただ、上下関係に縛られているだけ。
就職して上からの命令にYESスマンであるから、体育系は好まれるというだけ。
激しい運動にはたえられても、皆、精神的に弱い。
それは、体はきたえても精神をきたえていないから。
創造力を鍛えてないから。
ガマンしていることを”精神を鍛えてる”と、かんちがいしている。