東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

仏陀の哲学

おはようございます d(>ω<●)オッハー(●>ω<)b

 

現代、このカオスの時代、憎しみ、不信、残忍、非道、言えばキリのない悪いことしか思い浮かばない時代。だからこそ、ひとりでも心の中だけは穏やかに平常心を保てるようにするには、どうしたらいいだろう・・・と思うとき、例えばキリストの言葉(聖書など)を読んでみても、文章の理解に時間がかかるし聖書の和訳は日本人の文法とあまりにかけ離れていて解釈が難しく頭に入ってこない。東洋人ならブッダの教え(哲学)を知ることで穏やかな気持ちになる、と、思う。

仏教(仏陀)の教えで人には108の煩悩があるのは皆知ってると思う。そのなかでとくに罪深いのが「愚痴」「怒り」「慢(人を見下す心」である。

これらはざっくりと言って人が人に対して怒りを言うことである。

お釈迦様は、悪口、怒り、見下されたことを言われたら、それにたいして悪口や怒りで返してはいけないと言う。

怒りには怒り、悪口には悪口、戦いには戦い、で返せば、それは相手から受け取ったことになる。受け取ると言うことは、相手と同じ土俵に立つことになる。つまり、相手と同じになってしまうのだ。

悪口を言われて、なぜお釈迦様は怒ったりしないのか?

 

知恵ある物に怒りなし

よし吹く風荒くとも、心の中に波立たず

怒りに怒りをもって報いるは

げに愚か者のしわざなり

 

相手の怒りを受け取らなかったら、その怒りは誰のものになるのか?

全部、あなたのものになるのだ。

あなたがお客に食事をふるまい、客が食べなかったらその料理はあなたのものになるだろう。わたしはあなたが差し出す食事(怒り)を食べない。だから、そのまま持ち帰るがよい。

 

不条理なことを言われたら、怒りが湧く。不満が湧く。それは誰もがそうなるだろう。それは相手から怒りや愚痴を受け取ったことになってしまう。相手と同じ、愚か者になってしまう。

何かを言われたらニコニコと平常心で何も感じなく聞いてるようで聞かなければ受け取らなかったことになるのだろう。こうなるには修行が必要だろうか?いや、修行など必要ないと思う。(わからないが、たぶん)無心になれば、何も感情が湧かない、だから無心になればいいのだと思う。感情を静かなままにするには、(たぶん、できないけど)考えないこと。これが無心だと思う、だから、感じないように考えないことができたら、受け取ることはないだろう。

相手から悪いものを受けとらない、その逆で、自分自身が怒り、不満、憎しみ、を相手に感じた場合は・・・

相手に怒りや不満がある、感じる、実はその怒り、不満、憎しみ、は自分自身の中にあるもの。相手が持っているもではない。自分が生み出したもの。相手に不満や怒りをぶつけるのは自分の欲求を満たすための行為。自分自身で怒りや不満という悪を生んでその辺にばら撒いているのである。相手はそんなこと関係なく涼しい顔で過ごしているのだ。それは許せないから延々と怒り、不満、憎しみ、を産み続ける。

その時の記憶、さらなる妄想、そういう憎しみや悲しみや怒りなどの記憶が残っていたり、情報によって膨らんだり、社会の不安で誘発されたり、そういうものが原因で記憶と妄想が生まれ続けるという。

過去の記憶は健やかに生きることの邪魔をする。ひとは意外に、憎しみ、悲しみ、などを思い出す実感が生きる頼りになっていることがある。過去の不幸を忘れてしまうことが不安になるという、変な感情が存在する。だから、いつまでも不幸のままなのだ。

たとえば親しい人の不幸な死。納得いかない原因の死。犯罪による死。(これらは自分は経験はないが)忘れてはいけないと思うことで、いつまでも自分自身が不幸のままで生きることになる。忘れてしまうことは非情であるし、あきらめられない、忘れたくない、、こういった解決のつかない感情で堂々巡りをしている。そう想像できる。

悩みと悔やみと悲しみが、いつの間にか生きることの一部になってしまう。それを忘れると、何を気力に生きればいいのか、わからなくなる。そこまで行く前に、自分が憎しみと後悔の塊になって一生を終えるという不幸より、精神を楽に幸せにすることが一番大事だと考え、過去を捨てること、しかないと思う。