ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

嫌なやつを自分のためになるから、受け入れる、と思うのは、馬鹿げています

批判をしない と、決めた。

世の中の不正とか、犯罪者を批判するのはやめないが、個人的にかかわる、いやな奴とか意地の悪いやつとかは批判しないように、、自分にかえってくるからね。カルマになっていつかかえってくる・・・

でも、わかっていても、笑顔でにこやかに、我慢すると、耳鳴りがしてくる・・・

なんだかね・・これでいいのかね・・・

好きでも嫌いでもなく、理由わからず自分の前を通過するような、人生に大きく関わらず大事でもない、嫌なやつが、なぜ、自分のまえに現れるのだろうか?

嫌な奴は人生の修行に必要ということだろうか?

耳鳴りをしながら嫌なやつと接するのが必要なのだろうか??

人生の修行として、この負のカルマを返すのに、必要なのだろうか・・・?

おかしい、そんなのはおかしい。

理屈でわかっていても、心の平和を乱されてそれが修行だというのは、ぜったいおかしい。

自分の場合は、その相手(達)にたいするとき、いつも自分が無能の演技をしないといけないのだ(なぜか)知ってることも、知らないふりをしないといけないのだ。

自慢じゃないが、野球や地理や戦国武将や、そういういま人気の知ってる自慢の人たちのような知識はまったくないが、そういう趣味嗜好の知識ではなく、生きて行くための食事のことや病気のことや暮らしに関することは、その辺にいる時代錯誤のおっさんや主婦より、自分の方がかなり詳しいと思う。

でも、自分より年が上の人(自分は66才の大人になってるのに、理解不能な頑固な昭和の遺物がいる)は、必ず「それは自分も知ってるよ」というと、バカにされたように思うらしい。年下(と言っても66なのにね)のほうが知識があったら不満らしい。顔や言動でわかる。 会社でもそういうことがあるだろう。平社員が上司や社長よりも知識が上の場合は多々ある。そして年下から知識を言われると、怒るようだ。そういう人たちは、正しい人ではない、と、自分は思う。一般的にいうと「心が狭い人」といえば、わかるだろう。

会社勤めをしている人(昔の自分を含めて)上司や同僚や誰でも、みんなそういった嫌な相手が自分のまえに実際にあらわれているだろう。

そんな事をいちいち気にしていたら病気になってしまうし、明日の朝起きられなくなってしまうし、逃げられないので、人間関係がギスギスしてしまうので、我慢して生きている事だろう。

しかし、相手の間違えを指摘せず、つくり笑顔もださず、じっと沈黙するか、その場から即逃げた方がいいと思う。 精神を壊される前に(こわす、ではなくあえて、こわされる、といった。)

カルマだから我慢して受け入れなくては・・・とか、他に何かいい方法があるかも、とか考えずに、一日も早く、逃げられる人はその場から逃げて。

したがって、自分は逃げようと思う。

「人生は辛いことばかりである。それを乗り越えることが生きることだ・・・」などと、いったいどこの誰が言った言葉だろう?!

これはすべてウソです。

辛い人生なんて、本当は人の人生にあってはいけないのです。

楽しく楽に一生を過ごせれば、それでいいのです。「毎日楽しくってさ、嫌なことなんてそんなにないし、病気になっても心配なんてしないさ!太ってても良いじゃない!」と言おうものなら、「あっそう。よかったね楽そうで!」と、反撃にあいます。

正しくない人は、己より幸せそうな人を見ると憎むのです。嫌味も言うのです。だからそれを無意識に皆知っていて、人との会話では自分は辛い人生だとか病気で辛いとかうまく行かないよとか相手に言うのです。それで、相手は自分より不幸な人だと思って安心する。そうしないと相手から「あんたばっかり幸せで良いね!」と反撃されます。

だから、自分は相手より無能なふりをしないといけなくなってしまう。そうしないと嫌な反撃をされる。人の無能さが好きな人は、自分より年上に多く、なぜか自分の前に何人も現れるのです。

でも、もし人生に辛いことが出てきたのなら、その理由を探って、即その日か、体調の良い日に(カルマ)を返すような行動をすれば、それでカルマを返せて(ぜんぶでなくても、徐々にかえして)、辛い人生が軽くなるはずです。それでいいと思います。

辛い場所に居る必要なんて、まったくないんです。

嫌なやつを自分のためになるから、受け入れる、と思うのは、馬鹿げています。