東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

日本人はいつもどこでも、 謝罪:「すみません」と言いながら生きている。北山修

連休ですよー(「おかみさん時間ですよー」の感じで。)

世の中のスケジュールとは関係ない年齢です。

去年の年末25日に放送されて「あの素晴らしい歌をもう一度コンサート」という番組を録画していたのをやっと観た。これ、ラジオのオールナイトにっぽんの55周年を記念してのコンサートだった。

左から森山良子 イルカ 清水ミチコ

左から北山修 坂崎幸之助(アルフィー) 松山猛(イムジン河の作詞)

懐かしの歌番組だろうなぁ・・とおもってたら、何と!往年のフォークシンガーたちだけが出ていたのだ!!これは永久保存版である。なんたって、皆さんもうけっこうなお年。一番若いのが清水ミチコである。それに若い人はわからないと思うが、フォーククロセーダースの最後の一人=北山修さんが出てるではないか!

彼が歌のコンサートの舞台で、北朝鮮の歌である次の歌「イムジン河」の前に「罪意識について」をスライドで論じ出た。

日本人はいつもどこでも、

謝罪:「すみません」と言いながら生きている。

初めにスライドで、なぜこのテーマなのか?を説明した。

「罪意識をどうするかが、問題になっている。罪を感じるとその苦痛の処理のため多くの行為を生み出して。これが極端な献金、自己犠牲などを強いて問題になる。そこに日本人が陥りやすい傾向というものがある」

今例のカルト宗教団体の問題で献金や自尊心の崩壊、、などが問題になってる人の心の問題を論じた。

<はじめに>

すなない、、という感情。この感情が多くつのってくると、自責の念、自分さえいなくなったらいい、消えた方がいい、自分が醜い、という自分が汚いという思いが多くなる。性欲、攻撃欲、金銭欲を悪いものだという気持ちが強くなる。自分が汚れていると思い込んでしまう。それを払拭するために、献身、献金、清貧を美化してしまう。

そして、ついには潔い退去・・・という思いがつのってしまう。表舞台から自分さえいなくなればといった最終手段に出てしまうことがある。真面目な人ほど、陥りやすいことだという。

そんな罪の意識などに囚われずに幸せになるには・・・

<人生物語をハッピーエンドにする方法>

(献身的の反物を織る夕鶴を比喩に語っている)

1)過剰に織らない=「一反目でやめる」

2)限界を噛み締める=「パートタイムの夕鶴」

  →夕鶴のふりをする。寝ないで織ったように思わせてしっかり寝る。

恩なんて返しきれない、返せない、義理なんて果たせない、罪なんて真っ白になんかならない。

3)潔く去っていかない=「楽屋の確保」

  →表舞台だけが人生じゃない。潔いなどというものはない。楽屋という意味は、表と裏の顔があってもいい、ということ。

<最後に>

「すまない」は すまないのだから、

償えない罪は、消せない恥は、返せない恩は、噛み締めるしかない。

ということでしたが、この方なかなかの哲学者であり、きれい事を言わない、信頼できる説得力があった。ついつい、「すいません」と無意識にも使ってしまう罪の意識、償いの意識、そんなものが習慣に、深層心理にあるのが日本人だということ。それが自己犠牲という自滅の道を、破滅の道を歩んでしまう。

年齢的なことだが北山修は「ハッピーエンドにする方法」と言っている。「ハッピーにする方法」ではなく、幸せな終わりにする方法、と言っている。現実的に今をハッピーに!ではなく、言ってみれば「幸せに死ぬ方法」である。これは彼のような年齢、人生経験者にしかいえないだろう。

もっとくだけて簡単に言うと、悪い奴、礼儀知らず、謙虚じゃない奴、恩知らず、そんなふうに思われても、自分は汚くたっていいのだ!関係ないさーと生きることが幸せになる方法である。ということである。もっと簡単にいえば、「常識あるいい加減な奴」になることだ。