ろくろく人生レポート

66才からの人生探求レポート

カッコいい自分であるために高齢者はファストフードで飯は食わないでほしい

遊ぶ場所、憩う場所、食事、お茶、暇つぶす場所、は、年齢、年代、ファッション、趣味嗜好、で、わかれて集まったほうがいい。。。と、つくずく思う。

これに反して、だれでもOKというのが「エイジレス」。これは逆に分断の原因だと思う。いろんな価値観の人が同じ場所で行動すること、理想はいくらでも言えるが、実際は人間には協調性もないし理解もしあえない生き物。自分はエイジレス、またはジェンダーレス、と声高々に言うのは反対。これは机上の理想で、現実には、ひどいいじめや差別が起こる。

ファッションではエイジレスの服などとカッコつけて言うけれど、一つ言わせてもらうと、どんな年代、年齢、性別でも着れる服を目指しています・・・などというファッションブランドはまったく軽薄である。

何が言いたいかと言うと、全ての人を対象につくっています・・・では、良いものはできない、ということ。(中途半端なものしかできないということ)

 

ほんとうは誰でも気がついてるし知ってること=年代、年齢に、それぞれに合う場所やスタイルがあるということ。

年をとるに従って感覚的に自分自身に合う場所がわからないといけない。あくまでも感覚的に、である。なぜなら、「60歳以上のシニア向け」とか、「75歳以上の高齢者はこちら」。。。とか。そう言う他者の決め事で自分の場所を決められるのでは決してなく、感覚的に自分に合ってるか?を、勉強するべきではないか?と思うのである。その理由は かっこいい大人でいるため である。

きのう、よく行くカルフォルニア風のインテリアの狭いカフェに、遅いランチを食いに入った。50代前半のオーストラリアの男と日本人女性の夫婦がテーブル席にいて、マスターと外国の思い出話をしていた。しかし、カウンターにはこの店には雰囲気が合わない80代の白髪でハンチングの全身焦茶系の見るからに匂ってきそうなじーさんが新聞を読んでいた。自分はカウンターの一番奥に座った。客は全部で4人である。

自分は派手なアディダスの青いマウンテンパーカーに白ボアのパンツでの66歳。外人夫婦はアウトドア風のスポーツ系スタイルでたぶん50代。しかし、もう一人の80代男性の外見のスタイルは見るからに普通のじいさんで、話好きで時々、外国人夫婦の話に入ったりしているのだが、その都度、夫婦は困惑した感じで対応してるような感じである。店が狭いとはいえ人の会話に入ってくるのも感心しない。新聞を4つに折りたたんで読んでるなんてのも競馬場にいるようで全く違和感があるし、ここにいたらじいさんはただの年寄りだけれど、もっとじいさんがじーさんとして自然に居れてじーさんと同じような年齢の客が集まっていて違和感のない店があるだろうに・・と。

自分はじーさんを差別しているのだろうか? だれでも年代も関係なく仲良くするべきなのだろうか? そもそも、仲良くするって義務?・・・じゃないだろう? 人を外見や年齢で差別してはいけない・・・のだが、行動で示さなくても思考したら差別になる、と言うことであったら差別したこといなる。。。のだが、一体どう考えたらいいのか、問題が残る。

外見だけではない。所作、習慣、流行、言葉使いが年代で違うのである。その違いに人は違和感を覚え、仲良くはなれないのである。そのじーさんは、習慣で食べ終わったランチのパンを出した木の皿の上にコーヒーマグを乗せていた。しかし、これはありえない。和食の食事ならまだしも、洋食のスタイルでの食事の後片付けをしてしまうという、年寄りの失敗でダメである。この習慣をやるのは70代以上の人である。これは家庭で食後の食器を重ねるという昭和の悪しき習慣をカフェでやったのだろう。なぜ皆、勉強しないのだろう?と思う。このブログを見てる人なら知ってることだが、この習慣は食べ終わった食器を重ねると他の皿に汚れがついてしまうため、よけい汚くなるのである。台所へ持っていくために小さくまとめようとした昭和の知恵は間違えである。とくに、ランチョンマットのスタイルのカフェランチでは誰もしない。そういう年代、時代の差を目で見てしまうと、自分には年寄りが痛々しく感じてしまう。

差別してるのかもしれない・・と言いたかったのではなく、このじーさんはこの店にいたら「カッコ悪い」と思ったのである。自分自身に合った場所にいれば違和感なくカッコ良い自分でいられるはず。でもそれを他人が言うわけにはいかない。

どっちにしても悲しいかな、年代を超えて。。。(エイジレス)などという理想は、ない。

今言ったのはその老人を差別することでは決してなく、そのじーさんに気がついて欲しかったのは、じーさんが80年も生きてきてその姿がカッコよく自然に見える場所、それはここじゃないよ。ここに居たらただの老いぼれに見えるけれど(他の客や店の雰囲気で相乗効果で)、もっとほかに似合う場所があるでしょう?

すごく意地悪に聞こえるかもしれない、この考えだが、自分ももう66歳で思うのは、自分がカッコよく見える、思えるようにするのは大事だと思っているから、絶対に遊ぶ場所、憩う場所、食事、お茶、暇つぶす場所、は、自分に似合っているか?を考える。だからじーさんにもそう思って欲しかった。(でも普通の男(ノンケ)にはむりだろうな、ゲイじゃない普通の男は美意識が低いから) 

生きるのに一生懸命でそんな女々しいことは意味がない!というおっさんもいるだろう。だから浅草には汚いおっさんが”ある地域”にたくさん集まるのだ。

買い物に行く場所、疲れてお茶を飲むサテン、食事をする場所などは、年代、年齢、経済的な違いで、意識的に店側ははっきりと区別している。これは、はっきり区別されている。(しかし店や場所によって生じる優劣の差は人が勝手に作り出したものである)

たとえば、吉野家や松屋の牛丼が主食の人は一体どんな人だと思うか?

 忙しいサラリーマン?

 学生?

 とにかく金のない人?・・・

すべてまとめて、カッコよく生きるなんて考えたことない人 だと言える。

自分も40代ごろまではよく食べていた。食いたくなるヨ、あの味。しかし、若かったから店に入れた。しかし50代になったら入れなくなった。カッコ悪い、と思うようになった。ファストフードで食ってもカッコ悪く見えないのは30代までだ。50を過ぎたら、金がないと思われないか?いいもの食ってないの?と、人目を気にするようになった。

貧乏人がカッコ悪い人、と言ってるのではない。金持ちだって牛丼が好きな人で食いに来てる人もいるだろうし、ただ、自分がガツガツカウンターで紅生姜に卵ぶっかけて丼に食いつくのはカッコ悪い貧乏人だと思われるのが嫌なだけである。

つまり、ファストフードは便利で安く2〜30代はカッコ悪く見えないが5〜70代が食ってたらケチか食にこだわらないだらしない人、と自分は感じる。少なくとも自分にはそう見える。だから、カッコいい人であるために高齢者はファストフードで飯は食わないでほしい。腹が空いても食わないでほしい。腹が減ったら我慢して家で米を炊いてレトルトカレーでも食ってほしい。

年代によってその場所にそぐわない、合ってない、似合ってない、ということを考えて行動しないとカッコ悪いという持論(あたりまえだよなぁ)。
一言で言えば「見栄っ張り」の戯言、だが、見栄っ張りはカッコ悪いことじゃない。