東京おとこひとり

語るモノコトのいろいろ

マイナス(悪)とプラス(善)のバランス

きのうは寒かったーー

ダウンに暖かインナーの上下着て真冬支度であった。 

いつものように銭湯へ行った。

自分って規則にうるさい方だと思う。うるさいというか、気にする、それが人として当たり前だと思っているが、怒りもあるしでも怒りはいけないと思っている。

寛容になれないというのは、気にしないように努力することが難しいからだ。寛容=許す、それはいったいどうやったら取得できるのだろうか?

きっと、コロナの感染が終わらないのは同じような軽いルール無視をしても気にしない人間が原因だろう。そういう、たいしたことないからいいんじゃない?的な行為ってのは、もう町中、世界中、どこにいてもかならずいる。

よくあるのは信号が赤なのに横断歩道を渡る、とくに自転車など、そういった何げない日常の誰もが見かけるマナー違反の行為。銭湯では脱衣所ではスマートフォンは使ってはいけない規則が多い。盗撮がよくあるからだ。しかし、20代の奴が脱衣所でスマートフォンを操作していた。

「ちょっとだけだから」と思っているのか、銭湯のマナーを知らないのかは知らないが、そう言うマナーを軽視する人間は非常に多い。別に法律で決まってるわけじゃないし・・と、思っているのだろう。しかし、これいちいち目くじらを立ててはいけない。世界というものは「マイナス(悪)とプラス(善)のバランス」で出来ていると考えられるからだ。

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ある書物(ブッダなど)によれば、修行というのは苦行のような痛めつけるようなものはする必要はなく欲望というものと戦うことが重要であると。それによって自分の格が上がる・・格とは意味が難しいが、さっき書いたような、「まぁだれも見てないからいいか?」とか「ちょっとだけだから」とか、そういうことは欲望の一種で、小さなことでも積み重なって個人の徳がどんどん低くなってゆくのである。

だから、脱衣所でスマートフォンをやっていても、どうぞ、どんどんやってください、あなたの魂の格と徳がどんどんと地に落ちてゆくだけだからと、ほっておけばいいし、バランスを考えたらほっておかなくてはいけないものなのだ。

こう考える。善良なものと悪は一定のバランスで存在し、そのどちらかが多くなっても世界の秩序が乱れる。したがって、誰かを善良な人間にすると誰かが悪になってしまう、、、と、こう考えてはどうか?