自己分析は楽しい。
「なんで?」を考えるのは癖になっている。
さいきん、ある結果が出た。
「テクニック」にはまったく感動しない。
むしろ、テクニックを見せつける物事には嫌悪さえ感じる。
例をあげると、
ピアノの演奏で(とくに若い子がやるのだが)激しスピードで演奏するやつら。ただ、うっとうしいだけで、なぜもっと芸術性や情緒を重視しないのだろうか?と非常に未熟で公に見せるものではない。激しくテクニックを披露することで自己陶酔するという幼稚な発想、ただただ疑問である。
運動競技で、距離、タイム、技、を磨く人たち。勝利のためにテクニックを磨くのだろう、しかし、「競う」ということ(スポーツ)には勝敗という差別でしかない。
バレエは芸術性が最も重要とされている。あのニジンスキーはバレエで人より高く飛ぶことの意味の無さに気づき、
テクニックよりも情緒制が大事だと気がつく。
自分は芸術性というものを重要視するので、勝敗、歓喜、興奮、などが人間に必要だと思ってる輩にはわからないだろう。
しかし、平和主義という古い言葉の通り、ゲイや女子は、もともと平和DNAが組み込まれている生き物のなのである。闘争が本能で自滅型の男性と違う生き物である。世の政治を男性に任せると必ず戦争になるのことは歴史が証明している。
今はいいだろう、競技を見て興奮して闘争心が芽生えても、それは、ただその時だけの狂気に思えるが、しかし、これの繰り返しによって、麻薬のように闘争し興奮をしないと満足できなくなる。実際に戦いたくなる。終には、戦争がしたくなる・・・可能性を秘めている。
人は興奮と冷静を繰り返すことで満足感を得る。
まさに麻薬現象である。平和、平和と言葉で言っていても、フラストレーションを興奮で緩和したくなる、それが競技というものの目的なのである。
競技の意義(目的)は闘争心の提供。
今はいい、でも10年後、30年後、100年後には興奮、歓喜、勝敗、後悔、絶望、怒り、が目に見えない領域に蓄積して手がつけられない状態になる。だからすべての競い合うことは危険なのである。